すぐ下の妹の藤尾が、長く勤めた会計事務所を三月末で辞めた。母のティーサロン『World's　end』を、夫でコックの雀とともにやるという。二人で住んでいたアパートも引き払い、実家で光夫婦と小町との同居に踏み切ったのだから、本気だ。

聞いた時は驚いたが、後悔はないらしい。それどころか溌剌としている。桐子の悪阻を心配し、夕花が保育園に行くようになると小町と代わる代わる、送り迎えまでしてくれる。

こんなに助けられているのにどうして悪阻が続くんだろう。
どうして気持ちが晴れないんだろう。
どうして。


これまで桐子は、自らの意志と努力でたいていのことをやり遂げてきた。父が死んだときも、母が病んだときも、光が出ていった時も、家族を支えるのが自分の役目だと信じて、なんとかしてきた。

なのに今度は違った。思うようにならない体に苛立ちばかりが募る。
だからって不満など言えない。


藤尾の事情を聞かされたのは、小町に妊娠を伝えた時だ。
「知っておいて欲しかったから」

苦しんでいた妹に気づかなかった自分を責めた。それから妊娠をどう伝えようと悩んだ。不用意な言葉は論外だが、過大な遠慮も傷つけるだろう。結局、普段通りに伝えるしかできなかった。

「おめでとう桐姉、良かったわね。男かしら女かしら、楽しみだわ」

素直に祝ってくれる言葉が有り難くて、重かった。自分は恵まれている。だからこそ苛立ちや不満は心の内に閉じ込めなくては。


あわただしかった四月が終わり、悪阻がゆっくりと退き始めても、心の憂いは晴れなかった。保育園帰りに寄ったティーサロンで、お茶を前にぼんやりしていたら、小町が突然爆発した。

「ああもう桐子ったら、どうかしてるわ！」

カウンター席の真横に立ち、腕組みしてにらみつけてくる小町に、あ然とする。

「何？　小町さん何なの？」
「何なのじゃないでしょう、いつになってもしけた顔で」
「しけた顔ってー、どんな顔？」
夕花に興味津々に聞かれたが、小町はあっさり手を振る。

「つまらなそうな顔ってこと。悪い言葉だから使っちゃだめよ夕花」
「はぁい」
「だったら使わないでよ」
「あなたがしけた顔してるからでしょうが」

思わず顔をしかめた。
平日の四時過ぎ、客はいない。藤尾と雀は休憩で母屋に戻っている。

「……しけた顔で悪かったわね」
「悪いわよ。だから出かけましょう」
「は？」
「悪阻も退いてきたようだし、気分転換に遠出するの」
「するのって」
自分は主婦で、夫も子どももいるのに。

「連休も出かけなかったでしょう？　守さんには了解とったから。夕花は保育園お休みするけど、店は藤尾たちがいるから」
「旅行？　コチママと旅行に行くの？」
耳ざとく夕花が飛んできた。

「車でブンブン飛ばすわよ、夕花」
「ブンブンブーン！」
「小町さん！」
「問答無用。決定よ、わかった？」

こういう時の小町はブルドーザーだ。夕花とタッグを組まれ、守も承知とあっては、桐子に勝ち目はなかった。





　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　next　＞＞