バレンタインの翌朝、初音はホテルのふかふかのベッドで、睡眠と恋人不足を思う存分補充していた。

夢を破ったのは携帯だった。
元気な音楽が今だけはけたたましく聞こえてしまう。
あれは。

「……おまえんだろ」
「う、ん。あぁもう乙女だわ」

甘くまどろんで起きるはずが、眉根を寄せてしかめ面での起床なんて。覚えてなさい、乙女。

床においたバッグの中から手探りで携帯をつかみ、通話ボタンを押した、そのとたんだ。

『初ねえ？　初ねえったら今どこ？』
「……おとめぇ、あんた、何の恨みが」
『どこってば？　ううんどこでもいいから、来て』
「どうしたのよ、何かあったの？」

妹のあまりのあわてように、さすがに心配になって携帯を持ち直す。

『小町さんがいないの！　外泊よ！』
「……はあ？」

母がいないのと外泊という言葉が、初音の頭で繋がらない。

『夕べはあたしも遅かったから、そのまま寝ちゃって気づかなかったの。朝になっても起きてこなくて、部屋にもいないんだもん』
「だから？　どこか友達のところとか」
『鉄っちゃんち！』

一段と張り上げた声が脳髄に突き刺さる鋭さだ。携帯からはみだすほどの大声に、後ろから銀が何事かとのぞきこんできた。

「鉄ちゃんちって、どういうこと」
『夕花に頼まれて、日高のお父さんに、チョコレートを届けに行くって言ってたの！』

そういえば小町が何か、ぶつぶつ言ってたような。
でも、だからって。

『まさかと思って鉄ちゃんに電話したの！　そしたら折り返しかけてきて、お父さんと一緒に寝てるって！』

おとうさんと
いっしょに
ねてる？

まさかとかあり得ないとかバカバカしいとか、他にもいろいろな言葉が入り乱れ飛び交ってごちゃごちゃだ。なんとか理性を保とうとする。

「誰、が」
『小町さんに決まってるでしょーが！』

肩越しに耳を寄せる銀と目があった。

「小町さんと」　銀がつぶやく。
「お父さんが」　初音がつぶやく。
「寝てーー？」
「はあああーーっ？」

理性がこの世の果てまで吹っ飛んでしまった。
その間にも乙女の叫び声は止まない。

『今、鉄ちゃんちへ行くところなの、初ねえも銀さんと日高の家に来て！　いい？』
「けど、えっと」
『光にかけても電源切ってて通じないのよ！　来てよ？　すぐよ？　あ、電車来た、じゃあね！』
「ちょ、乙女？　ちょっと！」

通話は、鳴った時と同じく向こうの都合で切られてしまった。あまりの驚きにかけ直しもせず携帯に見入る。銀がぼそっと言った。

「マジかよ」
「……小町さんと？　お父さん？　あり得なくない？」

どちらかというと角をつき合わせていた印象だ。
でも、そういえば。

「……暮れにも夕花と出かけてたっけ」
「三人で、だろ」
「けど、でも」

そこで考えるのをやめて、初音はベッドから飛び出した。あわてて着替えを始める。
「行くのか？」
「だって、気になってしょうがなくない？」
「……だよな、畜生。せっかく奮発したってのに」

聞き流すには衝撃が大きすぎると銀も認め、しぶしぶ起き上がる。どっちにしてもあとで乙女を叱らなきゃ。時と場所についてとくと教えようと思いつつ、できうるかぎり早くと、初音は支度を急いでいた。



乙女にしても、言い分はあった。

結婚を二ヶ月後に控えた姉たちを邪魔したがるほど、自分は無粋でも野暮でもない。時と場合くらいわきまえていると。でも、それどころじゃないんだもの。

おまけに雪だし。ああもう、ブーツがめちゃくちゃだわ。二日続けて雪を蹴散らす羽目になるなんて、どういうこと。積もらなくてもいいのに。そりゃあ夕べはロマンチックだったけど。

夜半に家まで送り届けてもらって、たっぷり余韻に浸りながら眠りについたっていうのに、起きたら誰もいやしない。初音と光はともかく、小町が外泊？　直感ていうのは当たってほしくない場合ほど当たる。

「鉄ちゃん？　まさか、まさかと思うけど、小町さんそっちにいない？」

携帯からの声だけで、鉄が寝ぼけ顔しているのがわかった。

『おまえ、なぁ、朝からなに寝ぼけてんだ？　小町さんがうちにいるわけないだろ』
「いない？　ほんとにいない？　確かめて」
『勘弁しろよ、眠い』
「いいから早く！」

携帯を握ったままだろう、だんだんだんと腹立たしげに階段を下りる鉄の足音がすぐそこに聞こえる。

『親父ぃ？　起きてんのか？　なあ乙女が寝ぼけたこと……』

吸い込まれるように鉄の声が消えた。ぴしゃっと障子が閉まる音に、階段を駆けあがる音が続いて静かになった。はぁはぁと荒い息づかいだけ伝わってくる。

「ちょっと鉄ちゃん？　鉄ちゃんてば、てつ！」

通話口で叫び続けて三十秒、ようやく聞こえた鉄の声はまるで、地獄からの応答みたいに不気味だった。

『……いた』
「いた、って。誰が？　お父さん？」
『親父も。小町さんも』
「小町さんも？　居るの？」
その後の鉄の言葉に仰天したのだ。

『二人一緒に、寝てた』

ぶちっと、通話を切ってしまった。頭の中で湧き上がろうとする妄想を叩きつぶす。行かなきゃ、自分の目で確かめるの。

そのまま飛び出したいところだったが、雪道を見たらそうもいかない。防寒とブーツは必需品だ。タクシーを呼ぶより電車の方がきっと早い。

駅へと急ぎながら初音に連絡したのは、一人で対処する自信がなかったから。初音を呼べば銀も来る、一石二鳥だ。電車に飛び乗ったあとは、ひたすらに目的地を目指した。土曜の朝で人が少ないのだけが救いだった。


最寄り駅を降りたらまた雪道、うんざりしながら急いだ。都心に積もる雪は厄介だとつくづく悟る。夜より朝の方が危ない。中途半端に溶けてあちこち凍っている。とうとう転んでしまった。

「っったぁー、冷たいわよもう！」

尻餅をついた地面に癇癪をぶつけて、なんとか自分を押さえ用心深く立ち上がろうとする。横からクラクションが鳴った。ドライバーをにらみつけようとしたら、助手席から初音が呼んでいる。天の助けだ。

「初ねえ！　早かったのね」
「よく言うわよ、人を叩き起こしたくせに」

銀の車の後部座席に乗り込むと、初音が身体をねじって聞く。

「ほんとなの？　小町さんが」
「言ったのは鉄ちゃんよ。違ってたら首締めてやる」
「おーこわい」

「文句あるの銀さん？」
「まさか、なんなら俺が息の根を止めてやるし」
「二人とも落ち着いてよ」
変に気の合う恋人と妹を、初音が困ったようになだめる。

日高家に着くと最初に飛び出したのはもちろん乙女で、初音が続いた。銀も遅れをとらない。雪崩をうって駆け込んだ玄関で、乙女が叫んだ。

「鉄っちゃん！　小町さん？　いるの？」
返事もまたず、居間との境の障子をぱあんと引き開ける。

待っていたのは意外な光景だった。こたつの上に納豆とお醤油、焦げ気味のあじの干物が並んでいる。鉄の好物だと聞いている肉味噌に白菜漬けもある。

朝にしては充実したメニューをおかずに、山盛りのごはんをかき込んでいた鋼と鉄が、箸を止めてびっくりまなこでこっちを見た。口の中の物をなんとか呑み込んで口々にわめく。

「なんだなんだ、朝っぱらから何だってんだ」
「うわ乙女、マジ？」
「マジ、ですってぇええ」

玄関から乗り込もうとして、しかしブーツは簡単に脱げず、仕方なく座って脱いでいる間に、銀が先んじた。さっさと上がり込むと、弟の頭をすぱーんと平手打ちする。

「いってえーっ、いてえよ銀」
「なにをのんきに朝飯食ってんだよ！　こっちは飯食う暇もなくおったてられたってのに！」
「そうよ、このバカ！」
ようやく追いついた乙女が、ここぞとばかりに真上から拳固を落とす。

「いてえ、いてえじゃんか、乙女まで」
「あんたあたしになんて言ったの？　小町さんが居るって」
「居るけど、いったい何の騒ぎ？」

驚くのはこっちの番だった。
お玉を持った小町がエプロンまでつけて、台所に立っている。

嘘。　マジ？
舌がもつれる。

「こ、こここ」
「初音までいるじゃないの」
「こまっ、ちさん？」
「あんたたちは一晩一緒でも足りないわけ？　結婚前だってのに人ん家まで押し掛けて」
「小町さん！！」
乙女の絶叫に小町が黙る。

「人ん家に押し掛けてるのはそっちでしょ！　なんで」
「なんでって、行けって言ったのは乙女じゃないの。自分たちは忙しいって断ったくせに。だから私が夕花のチョコを」
「届けるのはチョコでしょ？　自分まで届けたわけ？」
「はあ？」
「一緒に寝たってどういうことよ！」

その瞬間まで希望にすがっていたのに、小町が鋼とばつの悪い顔を見合わせている。うそうそうそ。

「ちっとな、飲み過ぎて」
「小町さん飲めないくせにっ」
「実は飲めたみたい。美味しかったのよ日本酒」
「それが？　それが理由？」
「鍋をつつきながらお酒飲むのって美味しいし楽しいし」
「だから？」

乙女のボルテージは最高潮、初音と銀まで手に汗握っている。
鋼が決まり悪そうに口を挟んだ。

「二人して寝ちまったらしい、こたつで」
「バカ言ってんじゃ…………は？」

全速力で走っていたら落とし穴にはまった。
そんな感じだ。

「こ、たつ？」
「こたつって、ここか、親父」
「ここに？　二人でってこと？」

落とし穴でもがく乙女と銀と初音をよそに、鉄があっけらかんと言う。

「びっくりしたぜえ？　乙女に叩き起こされてさ。居間をのぞいたら親父がさ、小町さんとこたつで寝てるんだもんな」
「だって、一緒にって」
「親父はこたつからはみ出て、小町さんはこたつにくるまってたけど、こたつ布団は一緒じゃん？　二人とも俺に起こされてびっくりしたみたいだけどさ」

「……鉄ちゃん」
「乙女の携帯、後でかけ直しても繋がらねえし」
「てっちゃぁあああん！」

昨夜、これ以上ないくらい甘い時を過ごした恋人の、胸ぐらをつかんで乙女は揺さぶった。もはや涙目だ。

「なんでそう言葉足らずなのよ！」
「人のこと言えないでしょ、乙女」

割って入る姉も脱力しきった顔をしている。乙女が手を離すと代わりに銀が、鉄に頭突きを食らわせた。

「っっってえよーっっ、なんで？　なんなんだ？」
「とにかくおまえが悪い！」
「そうよ！」
「乙女」

めっと姉ににらまれたが、どう考えても鉄のせいだと思う。それでも茶碗と箸を離さない彼の、食い意地まで憎たらしい。鋼の顔は乙女のあわてた理由を察して見えた。しらばっくれていても。

騒ぎが収まるのを見計らったように、小町がお盆に汁椀を二つ持ってきて、鋼と鉄の前に置いた。

「ほんとに騒々しいわねあんたたちは。で？　ご飯食べてないの？　お相伴させてもらう？」
「そうだ食べてけよ。てえしたもんはねえがな」

初音がそこで、危険物を捜すみたいにテーブルを見た。
「待って、ねえ、これって小町さんが？」
乙女もあわてる。母がこんなに手際がいいとは思えないが。

「ううん。葵さんて偉いわねえ、冷蔵庫の常備菜を並べるだけで朝ご飯になるもの。ご飯もジャーに仕掛けてあったし」

なるほど。初音と二人でほっとした。初音が銀と台所に向かう間に、鉄と鋼はまた納豆ご飯をかき込み、味噌汁をすすっている。小町のおしゃべりは続く。

「私は並べてよそって焼いたぐらいよ」
「楽だったじゃない」
「作ったのは味噌汁だけ」

ぎょっと顔を上げた乙女。
今、なんて？

「作った？　味噌汁って、……誰が」

乙女の目は小町から、鋼と鉄に飲み干されようとしている汁椀に吸い寄せられた。台所で初音の悲鳴があがる。

「小町さん、この味噌汁ってまさか？」
「鉄ちゃん飲んじゃだめーっ！」

時すでに遅し。
きょとんとした鋼と鉄の手にはそれぞれ、空っぽになった汁椀があった。





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