他の国はいざ知らず、この国のパティシエが一番忙しいのは冬だ。

クリスマスとバレンタインはパティシエを名乗る者にとって、天下分け目の戦みたいなもの。戦を前に寝るヒマはない。というわけで初音は睡眠不足が続いていた。

バレンタインを迎えるのは初めてじゃないが、少なくともこの職場では最後、などと感傷に浸るヒマもない。初音はただの兵隊だから、ひたすらに作り続けるだけだ。求められるもろもろのスイーツを。

朝から晩まで作ってばかりで、飽きないかと聞かれたことがある。職人がたとえば鍋や箸を毎日作り続けるように、料理人は料理を、パティシエはスイーツを作り続ける。飽くことなく作り続けられるのが、才能の一部なのかもしれない。

とはいえ、睡眠を削って作り続けるのには限界がある。ありがたいことにやっと十四日。今日が終われば一段落だ。ようやく銀にも会える。明日は根性で休みをもぎとった。コンシーラーでごまかした目の隈も、一緒に眠れば消えるはずだ。


今朝、小町に予定を聞かれた。「帰りは明日かな」と言うと、「光と同じね、全くもう」と唸られた。なんだろう、なんでもいいか。それより気になっていることがある。

バレンタインなのに。　パティシエなのに？
言い出したのは彼だけど、ほんとに良かったんだろうか。

『忙しいんだから作らなくていいぞ』
どんなチョコが欲しいかと聞いたら、彼はそう言ったのだ。

『人のために作ってるのに、彼氏に作らないなんて』
『おまえのことだから睡眠を削っても、納得できるまで作るだろ』

それは否定できない。
好きな人のためならそうしたい。

『徹夜したあげく、バレンタイン前にぶっ倒れたなんてごめんだからな』
『だって』
『バレンタインが終わってから、納得のいくチョコを作ってくれよ。楽しみにしてる』
『……ほんとにいいの？』
『男に二言はない』

銀がそこまで言い切ったので、甘えることにした。実際、余裕もなかった。それでも時間をひねりだしただろうが妥協ができない性格だから、彼の気遣いと申し出は確かにありがたかったのだ。

けど。でも。
女心は複雑だ。作らなくていいと言われるより、無理してでも作ってと言って欲しかったのかも、なんて。

もう当日、今更だ。
おまけに雪ときている。なんで雪なの。
交通だけでなく、売る方としてはさらに迷惑な天気だ。


午前中の出足は悪くなかった。雪が積もらず溶けていたから。しかし午後になると様相は変わった。雪が重く大きくなり、路上や屋根や土に少しずつつもり始めると皆、気が気でなくなる。週末の金曜日、最後のピークは例年なら夕方なのに。

作った物が売れ残るほど悔しいことはない。
商品の半分は賞味期限が本日中となるとなおさらだ。


おいしいと思ってくれますように。パティシエがこめる願いはそれだけだ。誰であろうと口に入れた人に喜びを感じて欲しい。すべてのパティシエはそのために闘っている。もちろん愛する人が喜ぶのが一番だけど。

あぁやっぱり作れば良かったかしら。
後悔を振り切って、初音はひたすら仕事に徹した。




ようやく店を出ると、道は真っ白だった。ブーツをはいてきたのは正解だったが、ざくざくとした感触には慣れない。疲れも手伝って今にも足をとられそうだ。

結局、売り上げは去年とどっこいどっこい、少しは上回ったか。賞味期限が本日中のものはほぼ売り切れてホッとした。

でも疲れた。雪と寒さで目が覚めてもよさそうなのに、寂しくて哀しい気分だ。どうして、変だわ私。

「初音」

条件反射で顔を上げたら、銀が居た。捜し物を見つけた気がして、思わず駆けだした。当然ながら雪に足をとられる。

「おいっ」

距離があったので銀がさしのべた手は間に合わず、初音はすってんころりん、見事に転んだ。

「……ったぁーい」
「なにやってんだよ、バカ」
「バカはないでしょ、仕事に励んでた彼女に」
「雪道を走るのはバカだ」
「だって」
立ち上がらせてもらいながら、恨めしく見上げる。

「急に呼ぶから」
「走らなくてもさ」
「……疲れたの、お腹空いたし」
会いたかったのにとは言わずうつむいたら、彼の声。

「あとで渡すつもりだったんだが、しょうがない。ほら」

手に載せられたのは、どこにでもあるような紙袋だ。手袋をしていても伝わってくる熱。温かい？　彼が開けろと目で促す。折ってあるだけの口を開いたら、ふわっと蒸気が白く濁った。

ドーナツ？

手袋をはずして取り出してみると、やっぱりドーナツだ。小さくて揚げてない、焼きドーナツだ。点々と練り込まれているのは、チョコ？

「食べて見ろよ」

お腹もすいていたから勧められるままに頬張った。外はカリッと、中はしっとりの焼き具合、チョコの甘み。何より焼きたての温かさ。

「……美味しい」
「だろ？　混ぜて焼いただけだけど、葵のレシピだから味は保証付き」

彼の言葉に驚いて、ドーナツが喉につまりそうになる。

「葵さんのレシピ？　焼いたって、あなたが？」
「もちろん」
「でも私、何も」
「作るなって言ったろ。俺がおまえに作って驚かせるつもりだったから。大成功、だな」

自慢げに彼が笑う。
その顔が急に、ぶわっとにじんだ。

「……初音？　ちょいまち、まてって」

仕事の疲れと、銀に会えた安心感。作るなと言ったのは本気だったことや、仕事のあとでわざわざ作ってきてくれたことなどなど。どっと押し寄せる感情で初音はとうとう泣き出した。

「ひーーんっ」
「参ったな」

抱き寄せられた胸はドーナツより温かかった。途方に暮れたように片手で傘をさし、片手で初音の髪をなでてくれる。沈黙が逆に心地よくて、涙はすぐに引いていく。

「なあ、寒いし、ホテル行こうぜ」
「……ホテルって？」
銀が指さしたのは、ここからも見える有名ホテルだった。
嘘。

「ほんと？」
「車置いてチェックインしてある。早くから予約しておいて正解だった」
「すごい」
すんすん鼻をならし笑顔になった初音の、涙を彼の指がぬぐう。

「行くぞ。歩きながらそれ食べちゃえよ」
「んん」
「急に泣くから、焦った」
「ほへん（ごめん）」
初音が食べる間に、二人の前を後ろを、雪が風に乗って踊っていく。

「ううさむっ、食べたな？　急ぐぞ」
「うん！」

最後のかけらを飲み込んでから、彼の腕に手をからめる。いつもより大胆に、初音は彼に身を寄せた。

「ありがと。……嬉しい」
「じゃあ前払い」

片頬で笑うと身をかがめた彼に、ぬかりなくキスを盗まれた。
そういうところも好き。

大好き。



バレンタインの雪夜。
パティシエなのに。彼にチョコを作らなかったのに。
世界で一番、初音は幸せだった。





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