会社の前で葵が車から降りる間も、雪は降りしきっていた。午後も遅くなるにつれ、濡れていただけの路面が白くなりつつある。

足下を確かめながら先に立った葵は、玄関ホールからエレベーターへ急いだ。ボタンを押すと、陸見の傘も受け取り自分のと併せ持つ。

「ずいぶん降り出したね。今日は予定が少なくて良かった」
「ほんとですね」

心から同意する。こういう日の会合はトラブルになりがちだ。幸い、後は社内で各部署との打ち合わせを残すだけだった。

チンと開いたエレベーターに乗ると、誰もいないのをいいいことに、陸見がからかってきた。

「源と予定があるんだろう？　バレンタインだし」
「社長」
「見るたびに、やにさがった顔になってるぞあいつ」

婚約が決まってから何かにつけてこうだ。光とセットでおもちゃにされる。もはやあきらめの境地、光はもっと攻勢をかけられているらしい。


『逆らわんとき。こっちが倍返しくらうわ』

冗談に聞こえなかった。結婚後も葵は仕事を続ける予定だが、光からも是非続けてくれと頼まれたくらいだ。

『やめるなんて言うたら、結婚阻止されてまう。大事な秘書さんかっさらっただけでも、クビが危ないっちゅうのに』

いくら何でもと思うが、光にすると触っちゃいけない神さまに触って祟たた　られている心境なのかもしれない。


社長室に入ってホッとしたのもつかの間、コーヒーを運ぶとまた陸見に尋ねられた。

「式のあれこれは決まったの？」
「彼のお母さんから提案されたんですけど。源の実家の庭で、親しい人と身内だけの人前式にしようかと話してるんです」
「庭で？　そりゃ面白い」

小町の申し出には驚かされたが、自分の中で意外なほどすんなりと受け入れられた。小町は言わなかったが、融と共にという願いが感じられたからかもしれない。


「会社の皆さんとは二次会を。そっちは亀沢さんと美羽に任せることにしました」
「持ちつ持たれつだね。それにしても家の庭とは」
「彼のお母さんがやっているティーサロンにもつながる、広い庭なんですよ。春には花がそりゃあ綺麗で」
「そこに花より綺麗な君が立つわけだ。見事だろうな……いかん、また源をいじめたくなってきた」
「しゃ、社長？」

仕事なら何を言われても対処する自信があるのだが、光との婚約についてはあれこれ心配させ、世話になった自覚が十二分にあるので、どうしたらいいのかわからない。

なんとか話題を変えようと、用意してきた包みを差し出す。

「あの、良かったらコーヒーと一緒に召し上がってください」
「僕に？　初めてだね。いいのかい？　源に怒られないかな」

思わず軽くにらんでしまったが、あっさり笑い飛ばされた。
お手上げだ。


雇われた時に陸見と儀礼は止めようと約束して以来、頑なにそれを守ってきたのだけれど、今年はどうしても贈りたかった。改まった感謝の品など彼は受け取ってくれないだろうから。

陸見のために選んだチョコレートは、彼が気に入っているブランドだった。揺るがない確かな味と変わらぬ魅力が、陸見に似合っている。包みを開いてほころんだ口元に、葵まで嬉しくなった。近しいからこそ見せてくれる表情だ。

「ありがとう、好きなんだよこれ。そうだ、ひとつ頼んでもいいかな」
「なんでしょう？」
「僕に何を選んだか、源には内緒にしてくれるかい」
「……どうして、です？」

いたずらっぽく彼が笑った。

「ささいなことでも秘密があると悔しがるだろ」
「……社長」
「聞かれたら、僕に聞けって言っておいて」

葵が困るのを百も承知で、陸見はにんまりと笑うのだ。

「春まで、まだまだいじめないとね」
「社長〜」

葵はがっくりうなだれた。

陸見と知り合えて幸運だった。葵はもちろん光もそう思っている。部下を愛すればこその彼のこういうところは、あきらめるしかないのだろう。

神様とは有り難いと同時に、厄介な存在でもあるのだ。


にこにこしながらチョコレートをつまむ上司をみつめ、葵は密かに恋人の無事を祈っていた。





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