藤尾が勤める会計事務所は、休憩時間を個々で自由にとれる。頭を使う仕事のせいか、根を詰めすぎると能率が下がることもあって、各自キリのいいタイミングで休憩をとることになっていた。

一区切りついた藤尾は給湯室に行こうとして、廊下で足を止めた。窓の外は朝からの雪が降り止まない。細かい雪が風に吹き飛ばされて、迷うようにあっちこっちしている。

ついこの間までの自分のようだと笑った。
笑えることにホッとしている。



年明けに藤尾が決めたことは三つ。
不妊治療を打ち切ること、会計事務所をやめること、それから小町のティーサロンで雀と一緒に働くことだ。

今でも子どもは望んでいる。努力を続けるべきなのかもしれないし、手段はあると言われた。望めば、雀は続けさせてくれただろう。何年も頑張っている人もたくさん見てきた。まだほんの入り口だ。

けれど負担は大きかった。身体はきつく、経済的にも厳しい。何より心がついてこなくなった。顕微鏡の拡大図の中、自分と彼がプレパラートに乗った卵子と精子に見えてくるのが怖かった。

人それぞれ、夫婦それぞれ、幸せの形は違うはず。雀は最初に　『子どもを幸せへのハードルにしないで』　と言った。今、どうしたいかと自分に問いかけて、治療をやめることを決めた。雀と今を生きるために、身体も心も見つめ直したいと思った。


さらに、光に続いて妹たちの結婚が決まったことが、別のきっかけをもたらした。


「今まではなんだかんだいっても家族の手があったけど。初音ちゃんは春に、乙女ちゃんも来春には嫁ぐし、桐子さんも仕事に復帰する。人手を確保しなきゃならない」

雀に言われて初めて気がついた。
母のティーサロンも変わる時が来ている。

「小町さんはなんて言ってるの」
「春になったら正規にひとり募集しようかって」

姉や自分のように妹たちも巣立つ。わかっていたのにわかっていなかった。変わらないことなんてない。これまでも母の店の経理はやってきた。誰かを雇うというなら。

「私が、やろうかな」

つぶやいた時の雀の顔ときたら。
こんなに驚くなんて。

「本気かい？」
「だめ？」
「駄目じゃない。でも会計事務所は？」

就職して十年、自分の能力を発揮できるいい職場だった。
上司にも同僚にも恵まれていた。でも。

「あなたと働きたいって思ったの」
ふたりで歩いていくために。

そっと引き寄せられて、彼の胸に耳をあてた。
「嬉しいよ」
彼の心臓もドキドキしているのがわかって、藤尾は微笑んだ。



一月末で治療を打ち切った。
事務所に三月末の退職を申し出た。ずいぶん慰留されたがわがままを通させてもらった。

小町は驚き、いぶかしがり、藤尾の本心をさんざん確かめたあと、賛成してくれた。四月からは経理だけでなく経営に携わる。紅茶についても小町に一から教わるつもりだ。さらにもうひとつ。

「雀ちゃんとうちに戻ったら？」
家をリフォームするついでにと、小町が提案したのだ。
「光たちとあなたたちと私。にぎやかになるわ」

雀があっさり同意したこともあり、藤尾に否やはなかった。四月に実家へ戻る。変化がまるで雪崩のようで、呆然としたけれど。

「変わるときはそういうものじゃないかな」

雀は笑った。彼の笑いから緊張がとれた気がする。藤尾のために今まで平静を保って見えたが、彼も緊張を強いられていたに違いない。だから、これで良かったと思えるように。


『後悔しませんか』

病院の先生に尋ねられた。「しない」とは言い切れない。自分はそんなに強くない。もしかしたらあの時と思うのかもしれない。けれど。

良かったと思えるように生きていこう。
大切なのは今と、雀。
自分の心の羅針盤を信じて。



窓の向こうの雪は朝より大きく重くなった。積もるのはきっとこれから。帰りの電車は大丈夫だろうか。雀のためのチョコは家にしまってある。彼もきっと美味しい料理を用意しているはずだ。

バレンタインをあなたと。


降りしきる雪の中、羅針盤が藤尾に指していた。
大切な人との、大切な一日を。





　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　＞＞４