「無理。却下」

明日、鋼に夕花のチョコを届けて欲しい。
小町の頼みを、乙女はあっさり蹴飛ばした。小町が眉を吊り上げる。

「ちょっと乙女」
「小町さん、明日は何の日？」
「バレンタインでしょ？」
「そうバレンタイン。鉄ちゃんと予定があるに決まってるじゃん。その前に大学行くし。明後日でもいいなら引き受けるけど」
「それじゃ意味がないでしょ」
「なら却下」
「えー？　初音は？」

乙女はあきれた。
この人は全く。

「小町さん、明日は何の日？」
「だからバレンタインだって」
「初ねぇはパティシエよ？　バレンタインに暇なパティシエなんてろくなもんじゃないわ」
恨めしそうに見られても、ほんとうだからしょうがない。

「それに、仕事が終わったら銀さんに逢うって言ってた。日付回らないと帰ってこないんじゃない？」
「だったら光は……言うだけ無駄ね」
「わかってたら言わないで」

この頃、兄は顔がにやけっぱなしだ。ちょっとした表情から態度から目から、幸せが漏れ出てくる。だだ漏れだ。それはいいことだし、自分も似たようなものだとわかっているが、正直ちょっと、うざい。

「困ったわ。夕花に頼まれたのに」
「小町さんが持っていけばいいじゃん」
「私？」
乙女に言わせればバレンタインに、息子と娘に頼もうとするのが間違っている。

「頼まれたのは小町さんなんだから。暇だし」
「暇ってなによ。私は店が」
「向こうも仕事でしょ。夜しかつかまりゃしないって。ついでに小町さんもチョコ持っていけば？」
「いやよ、なんで私がそんなこと」
怒るというより驚く小町に、ちっちっと指を振ってみせる。

「古い古い。今やバレンタインは愛を打ち明けるだけじゃないの、女同士でも男性からでも友情でも挨拶でもなんでもありよ」
「なんでもって」
「手土産ぐらい持っていくでしょ？　バレンタインならチョコが手土産で何の問題もなし、ぜんぜんふつー」
「そういうもの？」
「日高のお義父さん、甘いもの嫌いじゃないから喜ぶし。もしかしたら愛が芽生えるかもっっ、っいたぁあっいー」

思い切り頭をたたかれて悲鳴を上げる。
「バカなこと言わないの！」
「ええー？」

冗談なのにと思いながらこれ以上攻撃されないよう、乙女はおとなしく口をつぐんでおいた。



前夜からの雪は朝になっても続いていたが、積もらず溶けるので交通網はまだ平穏だった。大学は、後期の授業も試験もとっくに終わって、入試シーズンに突入している。

朝イチで研究室に来た乙女は、仲間と一緒に教授と卒論についてあれこれ話し合ったあと、昼を兼ねて学食になだれ込んだ。寒さで暖を求めるせいか意外に人が多い。

女の子ばかりだったので、食べるよりもしゃべる方がメインになった。卒論からファッションへ、噂から就活へ、女同士の話題は実に多彩で、どれほど話題がかけ離れてもすぐ飛び移ってくる。チャンピオンクラスのサーファーぞろいだ。

「今日、合コンあるんだけど、誰か行かない？」
「バレンタインに合コン？　やるぅ」
「ていうか、さみしー」
「チャンスとも言うよね。チョコもってたら何人でも釣れそう」
「バレンタインに合コンに来るのよ？　いい人いるかな」
「向こうも同じこと言ってそう」
爆笑がどっと打ち上がる。

「持ちつ持たれつ？」
「それなんか違うー」
「類トモ？」
「われなべにとじぶたとか」
「豚汁？」
「もっと違うーっ」

連発花火が打ちあがって今度は美味しい鍋料理に話題が移る。世間様に眉をひそめられそうだが、ここは学食だし、箸が転んでもの年頃だし、勘弁してもらおう。そういえば、箸が転んでもって一体幾つ？

「乙女は」
「え？　鍋？　豚しゃぶが」
「違うってば。彼氏いても合コンくらい平気じゃん？」

曖昧に笑った。彼氏がいることは話しているが、婚約したことは言ってない。タイミングもあるし気恥ずかしいのもある。結婚はまだ先だし。とりあえず断るだけにする。

「今日はデート」
「そりゃそうか。いいね、彼氏欲しいな」
「ねえ、理想はどんな人？」
またスライドする話題は、いかにもバレンタイン向けだ。

「なんだかんだ言うけど、理想ってやっぱ三高？」
「まだあるんだ？　その言葉」
「収入と学歴と身長だっけ。シビアー」
「理想じゃなくて現実よぉ」
女はこれだって言われそうだけど、男だって似たようなところを見るよね、絶対。

「源さんの彼氏ってどんな人？」
「そういえば知らないね」
いきなり興味の対象にされても、三高にはほど遠い。せいぜい。

「高いのは身長ぐらいよ」
「何センチ？」
「百八十越えてる」
「かっこいいんでしょ、源さんだってモデルやってるんだし」
うーん、と腕組みして考える。

「……ふつう？」
答えが意外だったのか、さらに聞かれた。
「どこの大学？」
「ううん、社会人」
「へえ、高収入とか」
腕組みが解けない。

「……高収入じゃないと思う。割り勘もするよ？」
「なんで？　社会人なのに」
「いつもじゃないけど、あたしだってバイトしてるし」
「えー」
なんだか周囲は不満げだ。

「ねえじゃあ、どこがいいの？」
「そうよ、カッコいいんでも稼ぎがいいんでもないなら」
「どこがって」
きょとんとした。そりゃあもちろん。

「彼があたしを好きで、あたしも彼を好きなところ？」

入り乱れていた声が急に静まり返る。
乙女の方が面食らってしまった。
あれ。　あたし何か、変なこと言った？


携帯がメールを知らせた。のぞいた乙女の表情は、見事に明るく華やかに変わる。返信する指が画面の上で踊っている。

「ごめんね、彼が迎えにくるっていうから。お先に」

トレーと荷物を持って軽やかに学食から出ていく。
残された誰かがつぶやいた。

「……源さんて、ああいうキャラだったんだ」
「なんていうか」
「名前負けしてないね。おとめ、だわ。恋する乙女？」
「彼女にあんなこと言わせるって、どんな彼氏？」
「いいなあああー」
「恋人ほしいー」
呪縛が解けたように騒ぎ出す彼女らを、周りが驚いたように見ていた。



大学の表門へ急ぎながら、乙女はメールを見直した。

『雪で現場作業中止。予定前倒しにするぞ。電車が遅れ始めてるから車で迎えに行く途中。あと１０分』

勝手に決めた用件のみのメールがいかにも鉄らしい。雪なら車だって遅れるのに。バカなんだから。
こないだ会った時を思い出した。


乙女が卒論で師事する灰谷はいたに　教授は、教育心理学が専門だ。頭が切れて気が若く、好奇心旺盛な子どもみたいだが、見た目は五十代半ばでも白髪、白ヒゲだ。柔和なたれ目で愛嬌がある。学生たちは敬意と親愛をこめて寿老人じゅろうじん　とか好好爺こうこうや　とか呼んでいる。

『こーこーやぁ？　漬け物じゃねえよな。どんな字を書くんだよ』

鉄の漢字変換能力はちょっと、かなり？　変だ。わかっていたので、乙女はなるべく分かりやすく説明したつもりだった。好きがふたつと、お爺さん。そのままじゃん。

ところが鉄は飲んでいたビールを吹きだして、叫んだ。
『エロじじいは駄目だろ！』
『はあ？』
どこから出てきたエロじじい、と思ったら。
『好き好き爺さんって言ったじゃん、今！』

笑うのを通り越してあきれ果てたっけ。
全くもう。

「好好爺って言葉が二度と使えなくなりそう。バカなんだから」
歩きながらつぶやいて、笑いだしてしまった。

笑えるほどバカだ。楽しいけど。おもしろいけど。
鉄といると退屈とか飽きるとかあり得ない。

大船に乗るって言葉を思い出した。例えるなら鉄は大きな船だ。人生はいろいろある。楽しいことや嬉しいことばかりじゃない。でも鉄という船に乗り込めば、辛いことや苦しいことも大声で笑い飛ばし、嵐も乗り切れる気がする。

そこがいい。
収入も学歴も、もし身長が自分より低かったとしても、鉄がいい。
鉄が好き。


雪のおかげで予定が前倒し、彼と一緒にいる時間が増えた。
最高だ。雪、グッジョブ！　と空を仰ぐ。

雪で困り果てている人がいたら、わがまま勝手でごめんなさい。
誰にともなくあやまりながらも、心は弾む。

バッグの中には初音直伝の、特製チョコが出番を待ってる。勝負下着もしっかりスタンバイ。雪だってニットワンピにニーハイブーツ、絶対領域しっかり確保で助手席で悩殺かな。

今年のバレンタインは史上最高、人生最高に決めてみせるんだから。


才色兼備ならぬ最強装備の恋する乙女が、無敵艦隊に乗り込む勢いで、積もり始めた雪を蹴散らしていた。





　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　＞＞３