バレンタインデーの前日。
桐子は夫と娘とともに小町のティーサロンを訪れた。

「守さんがね、予定が空いたから二泊三日で旅行に行こうって」

驚かせたようだが、いつだって心から歓迎してくれる。食事をすませてカウンターに座ると用意されたミルクティー。沁みいる温かさにほうっとため息が出た。


平日の昼過ぎ、ランチの客が退いて人がいない。テーブル席では夫の守が、夕花と遅い昼食を取っている。

大学で研究職についている守は、知的で人当たりがよく家族思いだ。父に似ている。小町が長女の相手として彼を気に入った、一番の理由かもしれない。

柔らかな彼の声はいつも桐子の心を震わせる。

「美味しいね、夕花。雀くんの料理は絶品だ」
「じぇっぴーん。雀ちゃん、おいしい」
「ありがとう、夕花ちゃん」

カウンターの後ろ、小町の隣で洗い物をしながら、義弟の雀がうれしそうに笑った。彼の料理はどれも美味しいが、デミグラスソースたっぷりのハヤシライスはこくと深みがあって格別だった。

なのに、一皿食べきれないとハーフサイズを頼んだからか、小町はまだいぶかしげ顔をしている。

「ダイエットでもしてるの？　元々太っていないくせに」
「ちょっと胃が落ち着かない感じなの。念のために控えただけ」
「ふうん」

今一つ納得していないのは知っているからか。実はこの頃、桐子は体調が良くなかった。頭が重かったり体がだるかったり。これといった症状がないので病院にも行っていないのだが。なんとなく苛立ってばかり。

「守さんたら急に言うから、用意があわただしくて」
「先月、予定がつぶれて夕花ががっかりしてたから、良かったじゃない」
「そうね」

相づちをうちながら、精神的なものだろうと自分では思っていた。

この春、桐子は大きな変化を控えている。夕花は保育園に、自分は客室乗務員の教育係として仕事復帰を予定しているのだ。入園が決まるまでも大変だったが、その後の準備も初めてのことばかりで気が張る。

仕事はさらにだ。客室乗務員としての経験を買われての教育係だが、教えるのはまた違う。ちゃんと勤まるだろうか。胃がおかしいのは日々募ってくる緊張のせいに違いない。こんなことじゃいけないと思う。


「ごちそーさま。コチママーっ」

空のお皿にちゃんと手を併せた夕花が、席を立ってダッシュで飛んできた。小町がしゃがんで手を広げる。

「夕花、お出かけ良かったわねえ」
「うんっ」

守はというと、二人分のトレーをカウンターに戻して、雀と話し込んでいる。雀とは年が近いこともあって仲がいい。夕花が小町におねだりの目をする。

「コチママ、お願いがあるの」
「なに？」
「今日からお泊まりで渡せないから。これ」
手に提げていた袋から、リボンのかかった小さな包みが出てくる。

「明日、コーパパに渡して欲しいの」

夕花がコーパパと呼ぶのは、パパでもなければおじいちゃんでもない、弟と妹二人が結婚相手に選んだ、日高三姉弟の、父親のことだ。

鋭い目とべらんめえ口調の日高　鋼を、どういうわけか夕花はすっかり気に入った。まるでほんとうの祖父のように慕っている。年の暮れには小町と三人でクリスマスプレゼントを買いに出かけたくらいだ。

バレンタインチョコも当然のように用意させられた。小町は夕花を独占できないからか、彼の話が出ると今一つ微妙な顔つきになる。今もそうだ。あわてて桐子が説明した。

「急に旅行に行くことになったでしょ。日高のお義父さんには帰ってから渡せばって言ったんだけど、どうしても明日渡したいってきかないから」

むっとした顔つきだが、夕花に頼まれたら嫌とは言えないようだ。仕方ないと言わんばかりに肩をすくめる。

「はいはい、渡せばいいのね。任せて」
「ありがとう、小町さん」
「コチママ、おみやげ買ってくるからー」
孫に抱きつかれて笑顔になった小町が、桐子にふっと真顔を向けた。

「守さんにも用意してる？」
「もちろんよ。夕花ったら迷いに迷って」
「夕花じゃなくてあなた」

「私？　そりゃ」
「夕花と自分にばかりかまけてないで、旦那さまも大事になさいよ」
びっくりした。今まであまり言われたことがなかったから。

「私、大事にしてない？」
「ばかね」

夕花が守のところに駆けていく。守が抱き上げてカウンター席に座らせると、乗り出すようにして二人のおしゃべりに加わる。

「あなたはいつだって家族を大事にしてるわ。私が言いたいのは、いろんなことをちゃんと話しなさいってこと。体調が悪いことや保育園への不安や、新しい仕事への怖さ。あなたは一人で抱え込みすぎるの」

そのとおりかもしれない。
そう思ったからこそ反論しようとした。

「彼は忙しいから」
「そりゃ男性もいろいろな人がいるけど。たとえば融さんは聞くのが好きな人だったわ。守さんもそうじゃない？　忙しいのを理由に聞かなかったりしないでしょ」
うなずくしかない。

「この頃のあなた、ずっと調子が悪そうだったから。気にしてるわよきっと。だからわざわざ時間を作ってくれたんじゃないの？」
はっとして小町を見た。
「バレンタインの週末にね」
「まさか」
「知らないわ。私の考えすぎかもしれないけど」

笑う小町から、夕花の向こうに座る守へと視線を移す。いつのまにかこっちを見ていた彼は、聞こえていたみたいにイタズラっぽく微笑んだ。

ドキッとするくらい優しい目は、いつも自分を見守っている。
知っていたのに。

「今思うことは、今伝えるの」
笑いを含んだ声で小町がささやく。
「明日は絶対じゃないから」
見合わせた目に悲しみがよぎった。

喪失の傷は癒えることはないのだろうか。もし、と思うのはやめた。大切なのは小町の言うとおり、先を憂うのでなく今を大事にすることだ。

「……ありがとう、お母さん」

滅多に呼ばない名称が知らずに出た。そう呼ぶといつもはしかめっ面をする小町だが、今だけは笑って流した。悲しみは消えなくてもその穏やかさが、時の流れを感じさせた。

母は大丈夫。光もだ。春になれば初音が嫁ぐ代わりに、葵がやってくる。この家も変わろうとしていた。

体調が落ち着かないのは、様々な変化に心身がひるんでいるのかもしれない。しゃんとしなくちゃ。桐子は自分を奮い立たせた。守が夕花の手を引いてやってくる。

「行こうか、桐子」

明日のためのチョコはもちろん荷物につめてある。夕花と選んだそれを、きっと彼は目を細めて喜ぶのだろう。ちゃんと言葉にすると桐子は誓った。

今までもこれからも。
あなたを愛してる、と。



守の車に夕花と乗り込み、母と雀に桐子は笑顔で手を振った。
空には雲が広がって、流れるラジオが予報を告げる。

今年のバレンタインは全国的に雪になろうとしていた。





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