順風満帆の風向きが突然変わることがある。
それが人生の岐路かもしれない。


初音の勤める「ラ・メール」は菓子製造の安定した会社だった。家族経営で保守的と言われながらも、広げるより限られた中での充実を理念としていてそこに惹かれた。

価格競争に乗らず、客の反応を確かめながら商品を作り上げる丁寧さ。製造を担当する初音たちも週代わりで販売にたち、客の反応を直に見聞きして自分たちの作っている商品を客観的に見るよう求められた。年間通してとにかく忙しかったが、若いから苦にならない。

これまで初音は、職場にとても満足していた。働くことを楽しんでいたし、上司や同僚ともいい関係を保っていた。もっと自分を磨いていきたい。独り立ちの夢はあるが、先のことだと思っていた。


昨年度末の業績がかつてなく落ち込んだ。大きな理由があったわけではない。少し売り上げが落ち、少し他社が勢いを上げ、円高の影響で材料費や関連費が食い込んだ。少しずつが積もった結果だったが、もたらされた変化は大きかった。

トップが変わり経営方針が変わった。それに伴い会社も変わった。店舗数がやたらと増やされた。正社員がそこへ飛ばされ、パートアルバイトが雇い入れられる。商品は売れ筋だけを先読みし、売れなかったらすぐ切り替える。

わずか半年での変化に誰もが驚き戸惑った。会長に退いた元社長のやり方に、その息子である現社長はかなり前から異議を唱えていたらしく、一気に変革を図ったらしい。初音の預かり知らぬところだが、影響は大きすぎた。


「関西、ですか」

突然の異動の話に初音は何も考えられなかった。相手の言葉を繰り返すしかできない。気心の知れた上司は難しい顔で机をにらんでいる。

「店舗を増やしたからって任せられる人間が増えるわけじゃない。勤続年数の長い人間を引っこ抜いて移し変えるなぞ安易の極みだ。やめてくれとさんざん言ってるが、新社長は聞く耳持たない」
「だって本宮さんも金沢さんも」

つい先月、初音の先輩ふたりも異動の辞令を受けたばかり。福岡と名古屋だ。本宮は納得できないと退職し、金沢は仕方なく辞令を受け入れ名古屋に異動していった。ここも人手不足なのに。

「現場のことなんかお構いなしだ。コンビニと同じことしてどうするってんだ、畜生」

初音の上司で製造部トップの頼沢が吠える。この半年かなりの鬱憤が貯まっている。

「とはいえ本部の人事だ。どれだけ噛みついてもけんもほろろだ。申し訳ない」
「頼沢さんのせいじゃないです。でも関西、ですか」
「あまり勧められん」
頼沢の言いぐさにまた驚く。

「製造じゃなくて営業に使われそうだ」
「そんな」
「こっちで別の仕事先を探すなら口を利いてやろう。残念だが、うちの職人は当面お先真っ暗かもしれない。僕も若かったら考えるところだ」

苦々しげな頼沢の言葉に初音は沈黙した。この半年、不穏な気配が強まるのは感じていた。恵まれた職場がこうもあっさりと覆くつがえ　るのが信じられない。

どうして。
何も言えず黙り込むしかできなかった。



仕事帰りに銀と待ち合わせした居酒屋で、ため込んだ怒りは爆発した。

「ひどいでしょ？　なんなの一体。いくらなんでもあり得なくない？　そりゃ仕事だけど会社だけど社員だけど、転勤なんて可能性すら言われたことないのに、突然だよ？　それも製造じゃなくて営業ってあり得ない！　人をバカにして、バカ野郎ー！」

「どうどうどう、落ち着けって」
「落ち着いていられると思う？」
「気持ちはわかるけどここは大草原でも無人島でもない、居酒屋なんだからさ。注目されまくってるぞ」

確かに注目されまくっている。居酒屋だから大声とか怒鳴り声とかないわけではないが、女の子が一人で怒鳴り散らすのはさすがに目立つ。赤面して頭を下げまくる。

「すみません、ごめんなさい、なんでもない、です」

銀はというと落ち着き払って自分の酒とつまみを注文している。あわてない態度が有り難いような憎らしいような、ほんとにもう。

「……止めてくれればいいのに」
「んなヒマないだろ。人の顔見るなり撃ちまくってたくせに」
「そんなにひどくない、でしょ」
眼鏡の奥から疑わしげにねめつけられて、初音は口をすぼめた。

「で、何？　もしかして転勤？」
「だから冗談じゃないってば」
「サラリーマンなら珍しくない」
「いきなり増えた店舗に営業で飛ばされるなんて、まっぴらよ」
「断るのか」
「わ、かんないけど」

腹立ちはMAXだがさすがに言いよどむ。断ったら辞めることになるだろう。望んで就職した会社で、ずっと勤め続けるつもりでいたのに。安定した仕事を投げ出すのは簡単ではないと思う反面、だったらぐだぐだ言わずに従えばと言う自分もいて、情けない気持ちになる。

「どっちなんだ」

平然とそう尋ねられて、腹が立った。一応つきあってるのよね、私たち。彼女が転勤になるって大事でしょ？　どうしてこんなに落ち着いていられるのよ。

でも当然か。私の仕事は私が決めるしかない。どうしたいのと自分に問いかける。答えはあっさり出た。私はパティシエだ。パティシエでいたい。培ってきたキャリアと努力をもっと積み重ねたい。彼のためでも家族のためでもない、自分のために。

「行かない」
「やめるってことか」

給料と待遇を考えないわけはなかったが、もともとこの職業は同じところに勤め続ける方が珍しい。それでも、うなずくのは勇気が要った。「就活しなきゃ」とため息になる。

その時だった。腕組みして思案げな顔をしていた銀が、ぶつぶつ独り言を言ったと思うと、まっすぐ座り直して初音を見つめた。
「俺も話があるんだ」

表情も雰囲気もがらりと変えた彼に面食らい、おそるおそる聞いた。
「なに？」
「結婚しよう」

冗談でなければ聞き間違えたのだと思った。にぎやかな居酒屋だ。人の話し声が飛び交っているから聞き間違えて当たり前だ。大体こんな場所でいきなりそんなこと言うはずが。

「聞こえた？　俺と、結婚しよう」

初音の沈黙をどう取ったのか、身を乗り出した銀が声まで大きくして、繰り返した。

おれと　けっこん　しよう

ゆっくりと脳に言葉がしみこみ伝わってくる。
聞き間違えじゃ、ない？

「けっこん」
「結婚」
「……け？　けけーっけっこーっっ？？？」

ニワトリみたいな絶叫を上げたらにぎやかな居酒屋がまた、静まり返った。眼鏡の鼻を押さえる振りで顔を伏せた銀が、あちゃーと小声でぼやいている。

さっき以上に注目を浴びてどうしたろって言うの。地球の反対側まで穴を掘って隠れたいくらいだ。いろんな意味で、人生で一番恥ずかしかった出来事として記憶に残るに違いない。


プロポーズが？
冗談じゃないわ。



人生の岐路。
手元に電気ドリルが現れるよう、初音はひたすら願っていた。





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