「気持ちいーいっ」
天まで届けとばかりに思い切り伸びをする初音の、あまり見せない子どもっぽい様子に銀の口元がゆるんだ。


平日の真昼間、遮るもののない野原は閑散として人気がない。背景に見える高層ビルが辛うじて都心だと主張している。朝方の雨が足元の草に滴になってとどまっている。
「なんだか」
隣から笑いを含んだ声が話しかけてくる。

「ものすごく贅沢な気分ね。たっぷりの空間とたっぷりの空気と」
「たっぷりの緑」
「そう」

我が意を得たりとばかりに見上げてくる彼女は仕事中とは違って長い髪を緩く編んで背中に広げている。緑と黄色のストライプ模様、ノースリーブのワンピースにカーディガン。足下はなぜかスニーカーだ。有能なパティシエとは別人に見える。姉を見て育ったから美人には驚かないが、こういう変身には驚かされる。


出会ってから喧嘩ばかりしていた。その後、ふたりだと沈黙も気まずくないことも知った。気配が読める。何かに気づいてそれを伝えようと声に出す前に、大抵向こうも気づいてこっちを見ている。他人と眼と眼で了解しあえるなんて小説かドラマだけだと思っていた。

反面、論じるときはどちらも徹底的に抗戦する。ところ構わず周囲にぎょっとされることも多い。終わればけろっとして後を引かないところも似ていて、気に入ってる。


「この季節が緑は一番元気よね」
「そうか？」
純粋に疑問型で返したのに相手は肯定されたも同然の顔で大きくうなずく。
「すごい気を発してるのが感じられる」
「超能力だ」
真顔で言ったら吹き出された。

「そんなことないわよ。うちの家族に聞いてご覧なさい、みんな同じこと言うから」
「超能力一家？」
「違うってば」
ケラケラと笑う声の響きが好きだ。
「家は古いけど、庭は広いでしょ。緑は毎年毎年生まれ変わるんだもの。若葉の季節はほんと、眠ってても枝葉が伸びる音が聞こえそうよ」
「やっぱり超能力だな」

からかってはいるが言いたいことはわかる。こんな緑のど真ん中にいてわからない方がおかしいだろう。花が終わって雨の季節を控え、木々も草も力一杯伸びねばと決意すら漂わせている。太陽の恵みを全身に浴びて。
「偉大なるお日様か」
「そうそう」
そこにいつもあるのが当たり前の存在は、失って初めてわかる。

「昔、おふくろが死んだ時。太陽が落っこちて永遠に消えた気がした」

なぜそんなことを言い出したのかわからない。葵とだって滅多にしない話。戸惑ったろうに初音は少し眉を上げただけ、表情を変えずに待っている。待ってくれる。沈黙が聞こうとする意志を伝えてくる。

「おふくろが元気溌剌だったとか明るかったってわけじゃない。どっちかって言えば物静かで、横暴な親父に耐えているようにも見えた。口に出して逆らったのを見たことなかった。でも、時がたつにつれてわかるようになった。おふくろは従ってるようで実は、うまく親父を転がしてたってことが」
「賢いひとだったのね」

打てば響くような答えはいかにも初音らしいと思う。
「そう賢かったし優しかったよ。欠点も弱点もひっくるめて親父を、家族を愛してた。もちろん親父も。俺達だって」
雲一つない晴れ渡った空が逆に、母の死の影で覆われた頃を思い出させる。

「消えるように死んでしまって、みんな闇に放り出された迷子みたいだった。悲しくて寂しくてどうしようもなかった」
そっと手が握られた。昔の話だと振り払おうかとも思ったけれど柔らかな手は気持ちがいい。

「あたしたちもそうだったわ」
見下ろした初音は銀でなく前を見ている。緑が風にそよぐきらきらした野原の光景を。

「父の死は突然でなんの前触れもなかったから。小町さん、母は打ちのめされて長く起きあがれなかった。乙女は小さくて意味がわからなかったし」
ぎゅっと握り返す手は柔らかくて、小さい。

「桐姉と光が二人の代わりをしてくれなかったら、どうなっていたろうって。よく思う」
「同じだな。横暴でわがままな親父と喧嘩ばっかりする弟二人を抱えて、なのに家事と家計とそれから自分の勉強。葵はどれひとつ手を抜かなかった」
ほんとうにどうやったらそんなことが出来たんだろう。

「葵がお日様になってくれたから、鉄と俺はまっすぐ伸びたんだ。親父も立ち直れた」
「光とそっくりね。似たもの同士だわ」
ふっと初音が言葉を途切らせた。伏せた瞼がふるえている。なんだか辛そうに。

「初音？」
「幸せになって欲しい。もう傷ついて欲しくないの。ねえ」
切り上げるようにまっすぐ銀を見る。
「葵さんなら光を幸せにしてくれるわよね？」

うなずきたかった。でも嘘はつけない。つきたくない。
「保証なんてないさ」
曇る眼にひるまず、銀は初音にというよりも自分につぶやいた。
「たぶん、傷つくことも誰かを真剣に想うことの一部なんだ」

するりと初音の手が逃げた。背を向けて数歩離れる。
「あなたが言ったとおりだわ。あたしってほんとに臆病者」
「初音」
「あれだけ傷ついても光は前に進もうとしてるのに。あたしはまだ覚悟がない」
ぴたりと初音の足が止まる。
「傷ついても想うだけの覚悟がない。ないのよ」

うなだれた彼女の肩を後ろから両手で抱きしめた。ふわふわの髪の香りを吸い込む。甘い香り。

「あんたが好きだ」
びくりと肩が震える。
「あんたは俺のことどう思ってる？」
両手を離しゆっくり彼女をこちらへ向けた。困ったような嬉しいような哀しいような、あれこれ詰め込んだギフトセットみたいな顔も、可愛い。

「わかってるでしょ。でも、だけど」
「でもとか、だけどは抜きだ」
「……好き」
「うん」
抱き寄せたつむじのてっぺんにあごを休める。こんな風に安らげる相手が、家族以外にいるなんて信じてなかった。

「そこから始めれば」
「はじめる？」
「ゆっくりいこう。俺もその方がいい。土台を作って基礎を固めて。新しい家を作るみたいに」
「材料を選んで色々試すのね。新しいお菓子を作るみたいに？」
くすっと笑うと、彼女も笑ったのがわかった。

「それでいつか」
「いつか？」
「覚悟ができたら」

彼女が眼を閉じたのがなぜかわかった。まつげが震えるのも。気の強い彼女は泣き顔を見せたがらない。銀の胸に顔を埋めてしがみつく。胸元でぎゅっとにぎる指が細かった。



草むらを風がさらう。放物線を描いて散るのは雨の名残りだ。
欠けた太陽、欠けた世界。
補われたのは姉や兄の努力と犠牲の賜物だった。

新しい世界はふたりで作り出さねばならない。
武者震いしそうだけれど、なんとかなるさ。
今、太陽はさんさんと輝いている。



欠けることのない世界の真ん中から、銀と初音は歩き始めた。





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