桐子が母子で実家へやってきたのは連休の最中さなか　だった。守は大学の用で留守だという。夕花を連れてきたのはあの事件以来だ。

「落ち着いたんか？」

小町と乙女に囲まれ、おいしそうにケーキを頬張る夕花から目を離さない姉に、光が尋ねると桐子は苦笑してこっちを見た。

「見てのとおりよ。あの子にとってはきれいなお姉さんに怒られた、それだけだったみたい。変に残らなくて良かったわ」
「そら良かったけど、俺が聞いとるんは桐姉のことやで？」
光の言葉に姉は鳩が豆鉄砲くらった顔をする。

「私？」
「わけのわからん夕花よりよっぽどダメージでかかったやろ」
「それは光の方でしょ。好き勝手言われ放題だったじゃないの」
「そやったか？」
きょとんとした光を見て桐子がさらに呆れ顔になった。

「なによ人が心配してたっていうのに。気にもとめてなかったの」
「何を」
「光と…」
ふっと声から力が抜けるのを無理に押し出す感じだ。

「光とつきあったのはあたしの弟だからって」
「あぁ。言うとったな」
「それだけ？」
怒ったような声に光が苦笑する。

「そら聞いた時はいろいろ思うた。やりきれんちゅうか情けないっちゅうか」
メガネをはずして眼をこする。包帯のとれた右腕、浅く残る傷を見る。
「けど思うたんや。お互いさまかもなぁて」
「何が」
そんなわけないでしょうと険のある桐子の口調にまた苦笑だ。

「若菜が俺に桐子との繋がりを求めとったなら、俺は若菜に家からの逃げ場を求めとったわけやから」
「冗談じゃないわ。光はあんなに傷ついたのに彼女はまるで傷つかなかったじゃないの」
姉の眉がつり上がる。いくつになっても姉は姉だ。変わらない守ろうとする姿勢。

「そやから今、傷ついとるんやろ」
「……どういう意味？」
勢いが削げて少しトーンが下がる。

「めげはしたけど、俺は今回傷つかんかった。言いたい放題やった若菜の方が傷ついとるやろ。離婚やら別居やら」

リビングのベランダから庭が見える。
初夏へむかう緑が思い思いに空を指して伸びていく。

「苦しいことや悲しいことは嫌やけど、無駄にはならん」
「そう……そうね」
うなずいた桐子はしかし、きっとまなじりを上げて宙を見据えた。

「私は若菜を許さないわ。できるなら二度と会いたくない。夕花にも会わせない」
静かだがきっぱりと言い切る桐子の、気持ちは光にもわかった。
「関わりを持ちたくないの。守さんも同じ気持ちよ。でも」
ぷつっと綱が切れるように目線が落ちる。何か書いてあるかのように手のひらを表裏と返す。

「……どうすれば良かったのかって、考えずにいられないの」
「何を」
「若菜が私にあんな風に執着してたなんて思いもしなかった。知らなかった」
桐子はソファにもたれて洋館の高い天井を見上げる。

「私にとって若菜はいつになっても友達とまで呼べない、せいぜい顔見知りの範疇だった。ばったり会っても話しかけようか迷うくらいの。なのに」
桐子にすれば見も知らぬ者から突然、熱烈なラブレターを突きつけられたも同じだったのだろう。

「彼女のしたことは彼女の責任なのはわかっているの。でも、ああなる前に何か、何かできたのかしらって、私に」
「できひんよ」
光は断じた。桐子がこっちを見る。

「どうにかして欲しかったんなら若菜はとっくに行動しとる。人見知りでも臆病でもないんや。若菜が桐姉を見とったんはそうしたかったからや。気づけいうんが無理やし責任感じる必要ないわ」

姉の目元が少し緩んだ気がした。形はどうであれ、昔から知る相手からの言葉と行動にずっと悩んでいたのか。そう思うと痛々しかった。

「桐姉はそれでなくても大変だったやろ。俺やみんなの面倒見て、勉強して就職して一生懸命働いて。人の何倍も荷物しょっとったのに人の何倍も立派にやってのけた。みんな知っとるし感謝しとる。あほなこと考えとったら義兄さんにはったおされるで」
「何それ」

笑おうとした桐子の顔が不意に歪んだのを見て仰天した。泣く？　結婚式の日でさえキラキラと太陽のように笑っていた姉が、泣いている？

「ちょ、な、桐姉？　俺なんぞ悪いこと言うたか？　なあ、なあって」
「ちがっ……だっ……っかりが…」
「やっぱり俺？　ごめん何言うたっけ、やのうてハンカチ？　タオル！」

あわてて立ち上がった光の腕を桐子がつかんだ。見下ろす姉の顔は泣いているけど、笑っている。なんやそれ。

「騒がないでよもう。弟の演説にちょっと、ちょっとね、感激しただけなんだから」
「感激て、ほんまのことやろ」
「大変だったのは私だけじゃないわ。みんな大変でみんな頑張ってた。私は外に出た分、知らないことや知ろうとしなかったことが多くて、ずっと。申し訳なかったって思ってたんだもの。あなたたちに」


姉の言わんとすることはわかった。
いまだに残るわだかまり。
家族の、タブー。

つっとそらした光の眼にとびこんできたのは一群れの立葵だった。空に向かって勢いよく開こうとする花は葵を思い出させる。ここしばらくの出来事を越えて彼女は少し変わった。より強くより前向きになった気がする。ためらってばかりだった二人の関係に対しても。


「俺が……弱かっただけや。桐姉にも藤姉にも言わんかったんやし。知らんのは当たり前やろ」
「でも」
「でも、挙げ句に家を出て戻ってこんかった。ごめんな」
桐子は首を振った。

「……時間はありがたいもんやな。やっと前に進めそうな気ぃしとる」
「ほんと？」
うなずく。
「ちょっとずつ、やけどな」
それだけで、また眼を潤ませる姉に焦る。

「あぁもう泣かんとき。夕花がびっくりするで。どないしたんや今日は」
「光がびっくりさせるからよ」
「結局俺のせいなんやから。ちょいまち、小町さんほどやないけど。特製ミルクティー作ったる」

女性に対しては経験豊富のつもりだが、姉の涙に免疫などない。苦肉の策とキッチンに逃げ込む。いくつになっても姉には勝てない。肩をすくめながらもケトルに水を入れる光の口元は笑みをこぼしていた。



慣れた手つきで支度する光を桐子はじっとみていた。
強くなった。昔よりも確かに。

『苦しいことや悲しいことは無駄にはならん』

言葉に重みがあった。若菜にとってもそうなら。二度と会いたくないけれど、あのままでいることとも苦しむことも望まない。人の痛みを感じ取れるようになって欲しい、それだけだ。


緑あふれる庭へ桐子は眼を転じた。空にのびていく立葵。光を強くしたのは葵の存在だろう。嬉しいともありがたいとも思いながら、まだ諸手もろて　を上げて大丈夫と言い切れないもどかしさを覚える。さっきの光の表情が気になる。

時は確かに味方だけれど、すべての傷が癒えたのかどうかはわからない。すでに家を離れた桐子には、母と光の関係が読み切れない。傷は光のほうがずっと深かったはずだ。

守りきれなかった、守ってやれなかった弟。なのに、いつだって自分を最大限に認めねぎらってくれる優しさに泣かされてしまう。

今度こそきっと。葵となら。
そう信じたい。


祈るように立葵を見つめてから、愛娘に視線を映した。ここに来ると必ず庭を駆け回る。かつて自分や光がそうだったように。

はしゃぐ顔には一点の曇りもない。怖い記憶が残らなくてよかった。夕花には決して、光のような思いをさせたくない。必ず、絶対守ってあげるから。

「ママーっ」
母親に気づいて手をふる夕花。その後ろで小町と乙女が笑う。
「おまたせ」
楽しげな光の声がする。喜びがひたひたと満ちてくる。



家族に囲まれた穏やかな皐月の午後。

弟の入れてくれたミルクティーの芳醇な香りと味を楽しみながら、久しぶりに心がゆったり解き放たれるのを桐子は感じていた。





　　　　　　　　　　　　　　　　　　　＜　May afternoon　　/ end　＞