その日曜、藤尾は休日出勤だった。

三月の決算期を終えてほっとしたのも束の間、新規の客や株主総会を控えたる客たちに追われていた。昼食にコンビニのサンドイッチをかじったはずだが気づくと夕飯の時間も過ぎている。日曜だって言うのに。自分に呆れながら帰路に着いた。

仕事に夢中になる藤尾を雀は決して責めたり怒ったりしない。いつだってニコニコして「お帰り」と迎えてくれる。そんな彼に甘えて家事も任せがちだ。苦手なわけでもないくせにと苦笑する。

甘えてばかりいたら逃げられるわよと自分を戒めた藤尾は、部屋の鍵を開けてぎょっとした。
「ただい、……ま？」

部屋の中は真っ暗で返事がない。明かりをつけると時計はもう１０時。World's Endは日曜も営業しているが、娘を気遣う小町は早めに帰してくれるのが常だ。こんな時間まで戻ってないなんて。

あわてて携帯をひっぱりだした。雀は性格的にも仕事柄も携帯にまめなほうではない。携帯を離さない料理人では食べる方も困るだろう。藤尾もだから似た者夫婦だが、そのせいで急な連絡を取りこぼしがちだ。案の定、雀からメールが入っていた。

『取り込んでてちょっと遅くなる』

送信時間は８時半。いくらなんでも。電話帳を呼び出してWorld's Endへ発信しようとしたが、後ろでドアが開く音がした。

「また鍵かけわすれてる。ダメだよ」
「雀」
しっかり施錠する背中にほっとしたが、脱いだスニーカーをきちんとそろえてから藤尾のところまでやってきた彼は、なんだか疲れて見える。

「雀？」

消えたはずの不安がよみがえる。ふたりの身長差は５センチ程度。首を傾げた藤尾を黙って雀は抱きしめた。そりゃあ夫婦だから抱き合って当然だが、帰るなりハグしてキスするほど大らかな夫婦じゃない。

「何かあったの？　小町さんとか。初音？　乙女？　まさか光に」

矢継ぎ早に問いかける藤尾に雀は首を振ったが腕はほどかず、藤尾の肩に顔を埋めて動かない。家族になにかあったわけじゃないのだろうか。でも。

「雀ってば」
「どうしても」
「え？」
「君はどうしても子どもが必要かい？」

「子ども」
顔をあげた雀が探るように藤尾を見おろす。
「誰のために？」

口数の多くない夫の真剣な顔を藤尾は見返すしかできなかった。



雀の語ったその日の出来事は藤尾にとっても衝撃的だった。夕花を連れ出されたと聞いて肝も冷えたが、その理由が。

「子どもが欲しいと彼女は繰り返していたらしい。夫のために」
「若菜、さんが」
「君もそう思ってるの？」

答えられなかった。そうも思ってるけれどそれだけではない。彼のためなのかそれとも、自分のためなのか。

「君が子どもを欲しいならと思ってたけれど、僕のためなら無理してほしくない」
「だって」
「話したね。僕は小さい頃家族を失った。小町さんに連れられて君に出会ってたくさんの家族ができた。感謝してる」

静かな雀の声がリビングに響く。

「十分なんだ」
「でも、家族が増えたら」
「もちろんそれはうれしいさ。でも。僕は早くに悟ってしまった。命は授かり物で、借り物だって」

その言葉には寂しさと同時に厳しさがあって藤尾をひるませた。

「借り物だから、いつ、どこで天に返すことになるかわからない。そういうものである命を、無理に求める気にはなれない」
「雀」
「授かる時は授かるだろう。どういう形でも。そう思うんだ」

藤尾はうなだれた。自分が試みている努力を否定されたようでつらい。リビングのソファで雀が肩を抱き寄せる。

「でもそれは僕の気持ちだから。君がそうしたい、そうすべきだと信じるなら止められない。その代わり」
「その代わり？」
「約束してくれないか。こどもを幸せへのハードルにしないって」

はっと藤尾が顔をあげる。真摯な眼が彼女を貫く。

「一緒にいるだけで僕は幸せだってことを忘れないで欲しいんだ」
「……ほんと？」

うなずく彼をみつめているうちに視界がゆがんだ。涙がこぼれる。藤尾の頬を親指で拭った雀はもう一度しっかり抱き寄せた。

「覚えてるかい。結婚式」
「隣町の教会。列席者はうちの家族だけで」
「光くんが出られなかったってあとで怒ってたっけ」

そう、気の短い藤尾は結婚を決意すると、弟が関西から戻るのを待てなかったのだ。

「君は白いワンピースで小町さんのベールをつけて」
「姉妹で最初に結婚するのが私だなんて、誰も思ってなかったわ」

涙混じりでクスクス笑いがもれる。

「僕らは誓った。健やかなるときも病めるときも」
「喜びのときも悲しみのときも」
「愛し敬い慰め助けあっていくと。何の条件もなく」

そう。

「ええ、そうよ」
「藤尾」

雀のしなやかで器用な指先が顎を引き上げると、いつも動悸が早まる。唇が重なるのとつぶやきは同時だった。

「…いしてる」

何かがほどけてふわりと泡になって天へと向かっていく思いだ。


挙式の日、牧師様を前にして、彼を自分に娶めあわ　せてくれた時と、神と母に心から感謝したのを思い出す。今もやっぱり感謝している。

雀は藤尾の通院にも協力的だし、精子も含めパートナーとしての検査にも快く応じてくれた。そんな彼の本心からの言葉はこたえた。彼が正しいのかもしれない。ハードルではなく天からの授かり物で、借り物の、命。

けれど別の思いもある。
彼には決してわからないだろう、女としての気持ち。


産む性に産まれて、産めないと言われることへの抵抗。悲しみ、悔しさ。夕花に会うたびに感じる羨望。これほど言葉を尽くされても拭いきれない自己否定をなんとかしたくてあきらめきれない可能性。

そんな自分は命に対して傲慢なのだろうか。


神様。
ああ、神様。



愛する人に抱かれる藤尾の心に、喜びと哀しみが舞い散っていた。
桜のように。





　　　　　　　　　　　　　　　　　　　＜　hanatiruyoruni　/ end　＞