バレンタインほどではないが、３月１４日もまた洋菓子職人にとっては忙しいイベントだ。バレンタイン、ひなまつり、ホワイトデー。年が明けてからは息つく暇もない。

専門学校を卒業して就職４年目。まだまだ下っ端ながら仕事に追われる日々にもめげず、何年かぶりに家に戻ってきた兄の様子を、初音は興味津々で見守っていた。


光がわざわざケーキを作るなんて、何年ぶりのことだろう。



源家では男女に限らず全員７歳にして台所に立つことを許された。というか求められた。

母の小町は稀に見る料理オンチ（あくまでも作ることにだが）で。彼女を台所に立たせることは、家族が日に３度テロ攻撃を受けるようなものだった、というのが誇張でないから怖い。必然的に父を筆頭として、子ども達は自衛のためにも台所に立ち、料理に熟達せざるを得なかった。


そういう経緯で兄姉妹全員、料理に困ることはないが、向き不向きは熟達度に差違をもたらす。長女は和食、次女はパスタ、三女は甘味、四女は野菜がそれぞれの得意技だ。

長男はというとこれがオールラウンダー。何をやらせても器用な兄だったが、調理師を薦められたのは１度や２度ではない。甘いもの好きが高じてパティシエの職に就いた初音も兄の独創性には時々、強烈な嫉妬を感じたものだ。



先月のバレンタイン前夜。

遅くに疲れ果てて帰宅した初音は、キッチンが明るくて首を傾げた。誰か夜食でも作っているのだろうか。リビングからのぞき込むとエプロンをつけた光がいてビックリした。


「こんな時間にどうしたの」
「初音か。お帰り。ええタイミングやわ。これ、味見してぇな」

かき混ぜていたクリームをボールごと差し出された。すぐ指を突っ込むのは職業上の習性だ。


「…うん。おいしいチョコクリーム。洋酒入りね」
「ミルフィーユに挟むつもりやけど、どない？」
「いいんじゃない？　香料何かあとちょっと」
「果物じゃあかんか」
「んーっと」

疲れてるのに巻き込まれるのは習性もあるが、兄とのお菓子作りがすごく久しぶりで嬉しくなってしまったせいもあった。

時間も忘れああでもないこうでもないと試行錯誤した二人は、オーブンの扉を閉めてやっと一息ついた。試食で甘くなった口にストレートの紅茶が美味しい。クスッと笑った初音に光が首を傾げた。


「なんやの。気持ち悪い」
「ほら昔。バレンタインに光と作ったチョコをあげたら、光が作った方が美味しいって言われて。拗ねたじゃない、あたし」
「あー……そないなこともあったなぁ」



小学校５年だった。告白しようとチョコクッキーを作り始めて。結構得意だったのに、力が入りすぎてあまりうまくいかず、見かねた光が手伝ったのはいいが、あげてみると相手が気に入ったのは光が作った方だったわけで。家に戻ってヒステリーを起こしたのは、初音にしては珍しい出来事だった。

『もうお菓子なんか作らない！』

光が思い出し笑いになる。


「初音があないに怒ったんは初めてやったな」
「しょうがないでしょ。お菓子作りと女のプライド、２本立てで壊されたのよ」
「２本立て？　そら剛気やわ」

大笑いする兄に初音は幸せな気持ちになる。思えばずっと光はこんな風には笑わなかった。家では。


「続きも覚えてる？」
「続き？　なんやった？」
「光があたしに言ったこと」

すでにパティシエになると公言していた妹に、光の言葉は厳しかった。


『比べたかったんじゃないだろ。誉めてもらうためじゃなくて、喜んでもらうために作れよ。プロになるなら』


「…そーんな偉そうなこと言うたやろか俺」
「うん」
「小学生にきっついなぁ。へこんだやろ。ひょっとして俺はたかれた？」
「今からでもいい？」
「なんでや」

笑いながらも初音は思い返す。
あの言葉が今の自分の原点だ。ほめられるためにでなく、喜ばせるために作る、お菓子。



焼き上がったケーキにさらにデコレーションを加えると上出来だった。ふたり、満足げに眺める。

「で、光。これは誰にあげるの？」

初音の問いに光はくるりと眼をまわす。


「あてましょうか。こないだの、……葵、さん？」
「しーっ」

光は唇に指を一本あてて周囲を見回した。


「乙女に内緒、な」
「はいはい。バレンタインに彼氏からチョコケーキなんて、凄い贅沢ね」
「そやろか。俺が作りたかってん。喜んで欲しぃて」

眼を丸くする初音。


『喜ばせるために』


どうして兄は料理人にならなかったのかといまさらに思った。





１ヶ月後のホワイトデーも初音にとっては忙しい日だった。よれよれで帰り着いた家の、リビングからいい香りが漂ってくる。光がひょいと首を出した。

「お帰り。お疲れさん」
「なんだ。デートじゃないの」

荷物をソファに置いて、食卓につく。


「デートてなんで」
「１４日なのに。振られた？」
「あんなぁ。社会人がイベントばっかし追いかけられへんわ」
「そりゃそうか。ねえ、いい香り」
「……玉露やて。のむか？」

日本茶と桜餅。なんとも和風。


「美味しい」
「ここ、昔から和菓子で評判の店なんやて」

その言い方に気づいた。


「葵さんから？」

光がクッと笑う。嬉しそうに。


「ええ勘やな初音」
「なんだ。ちゃんとイベントしてるんじゃない」
「ほなもう１個。自慢させてや」

横に抱えていた紙袋から、広げられた布地に初音は目を見張った。色とりどり、でも落ち着いた濃い色調で縫い合わされた、それは見事なキルト・カバー。


「すごい」
「手刺しやて。ベッドカバー。エビでタイやわ」

光にすれば確かにそんな気分かもしれない。


「ほんま。こないなつもりであげたんとちゃうんやけど」
「は？」
「こっちの話や。早うベッドにかけてみよ。おやすみ」
「ちょっと、片づけは」
「夜食代やし。頼むわ」

いそいそと鼻歌で階段を上がる光に、初音は呆れ半分苦笑半分だ。もともと愛想のいい兄だがこのところ一段と機嫌がいい。正月松の内に連れてきた彼女はやっぱり有望だったみたいだ。


皿やら湯飲みやらを流しに置いた初音はふと振り返った。
暗いリビングに甦る鮮明な記憶。


ここで。
泣き叫んだ光を決して忘れない。





ようやく光が見つけた、自ら喜ばせたいと願う人。彼女が、光を裏切ることのないように。どうか。どうぞ守って。

神様。
父さん。



１０年ぶりに兄が居るホワイトデーの夜。
妹は彼の幸せをただただ願って止まなかった。





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