２月にはいると社内の雰囲気が変わる。
擬音で言えばウキウキソワソワ。色ならピンク。商業主義の企みが国民的行事と化してるのを、しみじみ感じる時期だ。
「えー、ほんと？」
「……だって」
「うそだぁー」
ランチタイムとはいえ、すれ違う女子社員のいつにも増して甲高い会話に葵は顔をしかめた。この時期の騒々しさはどうも好きになれない。
葵だって知らない訳じゃない。誰かを想い育てる気持ち。
でも遠い昔だ。
腹立たしいのは自分がまるで周囲から隔離された、老人みたいな気分になるからだろうか。いや祖母を思い出せば今の時代、老人だってこの騒ぎに無関係じゃない。
自分は老人よりも枯れているのだろうか。死体？ ゾンビ？
ゾンビになるくらいならやっぱり今年は。
悩みながら歩く葵の行く手に、さらに苛つく光景が眼に入ってきた。
「そやからな」
「えー」
「源さんたらー」
おそらくは営業一課の面々だろう。男女固まって社員食堂の帰りというところか。それにしても男性より女性の比率が高いのは、先頭切っている磁石みたいな男のせいに違いない。彼はまさしく「愛想」の権化だ。
あんな男の誘いに乗ったなんて信じられない。おかげで彼と葵は今や、一対として社内で有名になってしまった。このまま出くわしたら何を言われるやら。
たまたまあった給湯室に葵は反射的に飛び込んだ。誰もいないのが幸いだ。背中を向けて一団が通り過ぎるのを待つことにする。隠れるなんて本意じゃないが面倒だ。
「ええー？ チョコ、受け取ってもらえないんですか？」
ひときわ大きな声が悲鳴に似た声をいくつも伴って響いてきた。葵の胸が動悸を打った。
「そういや大阪でも有名だったよな、光の君の門前払いって」
「なんやのそれ。えらい薄情に聞こえるやん」
「薄情じゃないですか。えー、どうして？」
「葵の上が怒るからですかぁ？」
眉間の皺が増えた。どうして自分のせいになるのか。あげるとも、もらうなとも言った覚えはない。
「大阪の頃からなら葵の上は無関係じゃん」
「俺な、入社以来そのたぐいは一切お断りしとるんや」
「どうしてぇ？」
あの妙に甘えた語尾を伸ばす口調はなんとかならないんだろうか。すぐそこで立ち止まってる声。さっさと消えて欲しい。
「無駄に期待させそうやん。こういうもんはいくら義理ちゅうても、期待はゼロやないし。面倒やねん」
「ほんとに全く拒否ですか？」
「悪いけど堪忍やわ」
「うっそぉー。あたしせっかく」
「あたしだってぇ」
「義理でなくても？」
「余計まずい。彼女おるのに」
女性陣の声がぴたっと止まり、男性陣のやっかみ声にとってかわる。
「そうだよなぁ。葵の上がくれるんなら俺だって他はいらないよな」
「そやな。葵やったらしゃあないかも」
「余裕だねぇ、源くん」
「えーつまんないぃー」
ガヤガヤとようやく声は遠くなったが、葵は壁によりかかったままで、むかっ腹を立てていた。
なによ。なんなのあれ。カムフラージュみたいな関係で、どうしてあんなのにチョコをあげなきゃならないわけ？ 「しゃあない」って何よ？ 冗談じゃないわ！
もう何年もバレンタインには縁がなかった葵だが、一応今年はどうしようかと考えていたのだ。ついさっきも、ゾンビよりは義理でも渡そうかなんて。気の迷い、却下だ。誰からももらわないなら彼女にも期待しなくていい、あの女たらし！
「みーつけた」
動悸がひとつ跳んだ。突然のぞき込まれるのは誰だって心臓に悪い。
「……っ、な、に？ 何よいきなり」
「いや、皆と別れて待っとったのに、なかなか出てきぃへんから」
バレてたらしい。
「なめたらあかん。葵ならどこにおっても即座にみつけたる」
メガネの奥、真面目なまなざしで言われると、意志とは無関係に顔は赤らんでしまう。目を見開いた光はさらに距離を詰めた。重なる唇。
「……っ！」
いつもいつも唐突で、なのにキスの巧い男なんて。こんなところじゃ誰に見られるかわかったものじゃないのに。
ぐいと胸を押し返すと、案外あっさり離れてくれた。にらみつけられてさすがに気まずげ。
「あーかんにん。葵が可愛い顔するし」
「はぁ？」
「さっきの話聞いて怒っとるかと思うたのに。意外性にやられてもうた」
「怒ってるわよ！ 言っときますけど、チョコなんてあげませんからね！」
やってられない。
突き飛ばすようにしてその場を歩き去ろうとした葵だが。
「葵ー！」
大声で呼ぶ彼はやっぱり、傍若無人。
「１４日、お昼休みに行くよってー！」
おまけに人の話を聞いてない。クルッと半身振り返り、葵も怒鳴った。
「来なくていい！」
社内１，２を争う有名カップルの怒鳴りあいに、何事かと振り返る者も多かったが。大方は痴話げんかとみなしたようだ。
葵の怒りはぶつけどころのないまま、当然チョコなんて意地でも用意せずに、バレンタインはやってきたのだった。
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