１日外回りならよかったのに。


朝から社長と会合を３つ駆けめぐった葵は、昼食に合わせて社に戻ってきた。社長室にもバレンタインがあちこちから届いている。フランクな社風故だ。

葵は誰に対しても一切しない。陸見とは雇われた時に、互いは儀礼を止めようと約束していた。そんなもの必要ないほどの心遣いを日頃から自負してもいる。人がするのにやぶさかではないが。


「そうか。バレンタインか。たまには社員食堂でも行ってくるかな」

時々そういう茶目っ気を出す彼だ。


「なら私も」
「悪いが日高君はさっきの案件、ＦＡＸが届き次第手はずして欲しい。僕の昼飯食べちゃっていいから」
「……わかりました」

承諾するしかなかった。まあいいわ。ない袖はふれないと彼が来たら言うだけだ。葵は肩を竦め、社長に用意したお弁当を食べ始めた。



光が現れたのは昼休みも終わり近く。葵が食べ終わるのを計ったかのようなタイミング。

「葵？」

ノックもおざなり、居ると決め込んだドアの開け方が妙に胸を突いた。そんな顔してもないんだから、チョコは。


「昼飯喰ったんか？」
「ええ」
「ほな時間もないし。これ」

トンと、葵の前にシンプルな紙の手提げ袋が置かれた。


「何これ」
「バレンタインやし。チョコに決まっとる」
「はい？」

聞き間違えかと耳を疑る。彼が、自分に？　チョコレート？
葵の上にあるまじき間の抜けた表情を見て、光は楽しげに破願する。


「そや。正確に言うたらミルフィーユ仕立てのチョコケーキ。源家特別仕様。そんじょそこらにあらへんで？」
「だ、だって。どうして？　あたし何も用意してないわよ」

チッチッと指を振る彼はなんだか得意気。


「バレンタインゆうたかて、女が男に贈るいうんは日本くらいや。元々は恋人でも親子でも友達でもこだわらんもんやで」
「……それくらい知ってるけど」
「やから、俺は葵に贈りたかってんやて。ホールやからうち持って帰って、親父さんや弟らと食べや。ここ、冷蔵庫あるし保つやろ」


どうしていつも、思いもかけぬ行動に出るんだろう。
初めからもらう気なんてなかったに違いない。初めから彼は。


時計をみる光。

「悪い。外回りに出るんや。昼に逢えてよかった。ほな」
「あ、あの」

行きかける彼の腕をあわてて葵はつかんだ。


「ん？」
「これ」
「気にせんとき。俺が楽しんだんや。毒は入れとらんで」
「……馬鹿」

ようやく浮かべた笑みを眩しげに見つめる彼に、葵は唇を寄せた。


「……ありがと」

葵からの初めてのキス。
軽く触れるだけだったのに、光は眼を輝かせる。


「えらい得したわ。お釣りや」

ゆっくりとキスが返された。逃げなかったのも葵の意志。
抱きしめる彼の腕はとろけるチョコレートの甘さ。


「チョコよりうまいわ、葵の唇」

去りがけの一言はやっぱり葵を赤面させた。





その夜。
酒飲みのくせに甘いものも大好きな日高家の男達は、自分たちの戦利品そっちのけで、葵の持ち帰ったチョコミルフィーユを堪能し喉を鳴らした。


「葵、どこのだよこれ。すっげぇうまい」
「もらい物よ。あんた、彼女のを食べてあげないと怒られるわよ」

つきあうことにしたとは告げてあるが、何分男尊女卑の日高家。光からもらったとは言いづらい葵ははぐらかす。


「鉄。これ手作りだぞ」
「ええ？」

銀の言葉に葵が驚く。そういえば確か「源家特別仕様」とかなんとか。紙袋も中の函も白いだけで、ロゴなどなかったし。葵の脳裏には彼のゴージャスな姉妹が浮かんで消える。


「市販じゃないよ絶対。確かにプロ並みの味だけどさ、ところどころ妙に素人っぽい」

観察力も舌も鋭い長男の意見は滅多にはずれない。


「甘いが、うまいな」

洋菓子を滅多に喜ばない父親のお墨付きまでもらってしまって。



まさか光が？　あながち否定もできない。でも？　もしそうなら、とてもじゃないが手作りチョコなんて彼にはあげられない。レベルが違う。

光の君、侮りがたし。



驚きと嬉しさと、謎ととまどいと、ついでに悩みまで加わって。
かつてなく葵の心を騒がせた今年のバレンタインデーだった。





　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　＜　aoi-no-valentine-jijyou　/　end　＞