仕事を早上がりした鉄は車をとばし、やっぱり早退した銀を拾うと葵の会社へ急いだ。パーキングも見つかってなんとか間に合った。


都心の一角にそびえ立つビル。
勤めて７年目になるここを、葵は今日ようやくやめる。


ホッとする思いは自分よりも銀の方が強いだろう。隣に立つ兄に少し見下ろす目線。二人の身長は銀が高校２年の頃（鉄が中学に入ったあたりで）逆転したが、決して銀が低いわけではない。鉄は今190あるのだから。



葵の勤める会社には、破談になった元婚約者も勤めている。銀や鉄とも幼なじみの、四つ木直哉。婚約破棄のあと、上司の娘と結婚した彼は婿養子に入った。噂によれば順調に出世コースをたどっているらしい。


当時、鋼も銀も鉄もさっさと仕事をやめろと葵にせっついた。彼らにすれば葵が辛いだろうと思うからだったが、当人は頑として聞かず。葵と銀が散々言い合ったのを鉄は覚えている。


「だから、俺はどうにでもなるって。奨学金だってあるんだし」

「そりゃどうにかはなるだろうけど。奨学金だって大抵はあとから返さなきゃならないのよ？　父さんは四つ木と縁切るなんていきまいてるし。あたしがやめたら大変じゃないの」


葵の言い分ももっともだった。直哉の行動は日高家にすればとても承伏できるものではなく、鋼は四つ木とのつきあいをいつなりともやめかねない状態で。下手をすれば大学どころか家計が危うい。


「じゃ、じゃあさ。仕事場変わればいいじゃん」
「鉄。簡単に言わないの。探すのもたやすくないんだし。今の会社は仮にも大手で、お給料も待遇も他よりワンランクいいのよ。勿体ないじゃない？」

姉が冷静になればなるほど弟たちは危惧した。銀が声高になる。


「あんなことされて顔合わせていられるのかよ。辛いだろ？　葵ばっかそんな目にあわすわけにはいかねえよ」
「そうだよ、葵。噂にだって」

「銀。鉄。心配してくれるのは嬉しいけど、会社じゃあたしと直ちゃんのことはほとんど知られてないから。それにね」

葵がまっすぐ兄を見た。厳しいのに優しいまなざしは鉄にいつも母を思い出させる。


「あんたを大学にやるのがあたしが就職する目標のひとつだったんだから。ちゃんと叶えさせてよ。ね。お願い」

黙ってしまった銀の、メガネの奥の瞳は潤んでいたかも知れない。すぐ顔をそむけたからよく見えなかったけれど。


「…受かったらガンガンバイトやるから」
「やぁね間違ってるわよ。ガンガン学んでくれなきゃ」
「おれ。俺も手伝うし」
「鉄。あんたこそ勉強しないと高校入れないわよ」

「いいよ。勉強嫌いだし。中卒で親父に弟子入りじゃ駄目？」
「高校は行きなさい。弟子入りはいいけどね」
「えー。俺落ちるぜ、たぶん」

「来年。俺がスパルタで教えるから。覚悟しろ」
「げ」
「ほら鉄。今からやっとかないと大変よ」

笑い出した葵の顔を兄と二人でしみじみ見つめたっけ。自分たちの姉はなんて強くて綺麗なんだろうって。直哉は大馬鹿だ。５年経った今も直哉を思うと、鉄のはらわたは煮えくりかえる。


そう、あれから５年。


春に銀は大学を卒業し、中堅の建築事務所に就職した。鉄も高校を卒業して父に弟子入りを果たしている。日高と四つ木工務店との関係は一時断たれたものの、忠治が直哉を勘当したことでなんとか保たれた。


葵はというと、同じ会社に勤め続けていたのだが、夏も過ぎる頃突然。

「あたし、仕事変わる」

そう言ってまた家族を驚かせた。なにかあったのかもしれないが決して口にせず。淡々と別の事務職をみつけ、上司に届けを出して。



葵が退職する今日。
鉄と銀はどうしても、姉を迎えたかったのだ。ここで。



開閉する自動ドアをじっとみつめていたら、見慣れた姿がゆっくり現れた。数歩出てからビルをふり仰ぐ葵。傾いた陽を照り返す壁の白さに一体何を思ったのだろう。

それを限りと向き直って進めた足は、ビルの前の植え込みに並んで腰を下ろしている弟たちを見てまた止まった。大きくみひらいた眼。歩き出すとえらく足早。


「あんたたち、どうしたの」

まだ距離があるのに呼びかけてくる。


「なんでいるのよ」

あと１メートル。立ち上がった鉄が、並んだ二人のうしろに隠していたものを差し出した。


「長々とお疲れさん」

足を止めた姉は見事な花束にあ然としている。


「俺の。俺たちのために色々我慢させて、すまねぇ」

銀が付け足した言葉に葵は目を剥いた。


「馬鹿言ってんじゃないわよ。あの頃続けることも今転職するのも、あたしが自分で決めたことだわ。あんたたちが謝ることなんかひとつもない」

鉄火肌はやっぱり、親父の娘だと思う。


「それでも。おかげで俺は大学に行けた。鉄も不自由なく高校に行けた。葵。ありがとう」
「姉ちゃん」

中学を卒業してからは使わなくなった呼び名で、鉄が照れながら花束を押しつける。


「葵姉ちゃん。ありがとう」


花をみつめた葵の眼から不意に涙があふれ出して、二人は焦った。


「お、おい。葵」
「姉ちゃん？」

ギュッと抱いた花束に寄りかかるように顔を押しつけ、肩を震わせる。しゃくりあげる。鉄は途方に暮れた。姉が泣くところなんてそれこそ、母が死んだ時にしか見たことがなかった。


踏み出した銀が葵の背を抱き寄せたから、鉄もおずおずと真似る。こんなに小さかっただろうか。いつだってしゃきっと背筋を伸ばした姿ばかり。自分を叱る大声ばかりで。こんなに華奢だなんて思いもしなかった。銀の手が葵の髪をなぜる。鉄は背中をさする。


「……んなに……」

小さな呟きが聞こえる。


「…おきく……なっちゃっ…のね……」

銀と苦笑をかわしながら、鉄は熱くなる目頭をごまかそうと必死だった。



三人の後ろ、自動ドアから数歩で立ち止まった人影があった。銀があげたまなざしに鉄もそちらを見て驚く。

直哉がいた。まなざしをきつくした銀が、葵の姿を隠すように姿勢を変えた。さらにその前へ進み出た鉄が直哉を見据える。

殺せるものならと言わんばかりの鉄の視線。受け止めた直哉は、無表情できびすを返すと再びドアへ消えた。泣き続ける葵は気づかなかった。





姉を、守るべき存在として鉄が初めて認識した日。


ビルの間に沈む太陽は晩夏のオレンジ色。
ゼリーのようにふやけ、より濃い橙だいだい　色の雲に溶けていった。





　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　＜　10　/ end　＞