「破談ってのは一体どういうことなんだい」

キヌの声が鞭のようにしなる。鋼は首をすくめそうになるのをじっと堪えた。

いくつになっても親の叱責は嬉しいものではない。母も母だ。50にもなる息子にそこらのガキと同じ調子で怒鳴りつける。

「鋼！」
「聞こえてるって。今話すとこだろ」
「さっさとお言い」
「俺だって寝耳に水だってんだ」

苦さ、悔しさ、重なり合う何とも言えぬものが鋼の口を重くした。





昨夜、話があると鋼の前に座った葵。
その様子からいい話とは思わなかったが、直哉との婚約解消を言い出されて鋼は仰天した。


「冗談言ってんじゃねえぞ葵」
「冗談でこんなこと言わないわよ」

あくまでも口調は淡々と言う葵だが、鋼はつかみかからんばかり。大声に二階から鉄と銀が駆け下りてきた。


「何考えてんだおめえ。いくら仕事が面白れぇからって結婚は」
「ちがうの父さん。言い出したのは直ちゃんなの」

葵の言葉に鋼は息をのんだ。口を出したのは弟たちだ。


「直ちゃんが？」
「婚約解消？　どういうことだよ」
「葵！」

三人に詰め寄られても葵は無表情だ。常ならこんな時隠しても動揺が見えるのに、今日の彼女はまるで鎧を装着した風だ。


「結婚をやめたいって。直ちゃんにそう言われたらどうしようもないでしょ」
「…じゃあおめえ…」
「同意したから。この話はなかったことにして」
「ばかやろうっ！」
「葵」
「葵！」

立ち上がり、それこそちゃぶ台をひっくりかえさんばかりの３人を、葵は静かに見あげるばかり。


「そんなばかな話があるか！　忠治は知ってんのか？」
「……今夜話すって。だから私も」
「理由は？」

銀の鋭い声に葵の表情が初めて揺らいだ。


「理由はなんだよ葵。聞いたんだろ？　元々あっちから申し込んできた縁だってのに今さら解消だ？　わけは何だ」
「そうだよ、葵！」

銀の、鉄の、鋼の。みつめる誰の目からも視線をそらし、唇を噛みしめる葵。膝に置かれた拳は握りしめて血の気がない。


「とにかく。破談になったから」

言い捨てるようにして、葵は二階へ駆け上がってしまった。


「葵！」
「…んなばかな話があるか」
「親父、どこへ」
「四つ木んちに決まってるだろうが！」
「俺も行く！」
「鉄、待てって！」

結局３人まとめて四つ木工務店へと走ったのだったが。



「それで？」

母の焦れた声。息を吐いた鋼が話を続ける。



その夜は四つ木工務店も大騒動だった。

義理と人情を重んじる下町。約束した縁を破ることは滅多にない。ましてや四つ木と日高は公私ともに古くからの馴染みだ。あたりまえながら息子の言葉に忠治も妻も激高した。しかも理由が。


「勤め先の上司から縁談が持ち込まれたんだとさ」
「上司から？」

キヌが呆れた声を出す。


「もっとも、直哉が考えたのは縁談だけじゃなくて。…四つ木も結構苦しいらしい」
「苦しいって」
「台所がな」

キヌが眉をひそめた。長い不景気でどこも苦しいのはお互い様だが、上と下に挟まれる四つ木みたいなところが実は一番きつかったりするのだろう。


「直哉は店を継ぐ気がないらしい。就職した時からそうだったんだろうな」
「そりゃ……」
「そこへ上司の娘との縁談だ。出世もできる。願ったりってんだ」
「義理も情もないってかい」
「忠治がぶっ飛ばしたし俺も一発くらわせたが、抵抗なんざしやしねぇ」

飛びかかろうとする鉄を銀は辛うじて押さえていたが。人が眼で殺せるものならば昨夜、直哉は２度も３度も死んでいただろう。四面楚歌のそんな中でも、直哉は決めてしまっていて。周囲が何を言おうと、詫びはしても翻す様子はなかった。


「俺りゃあなんだか外国人に喧嘩売ってる気がしたぜ」
「そう」
「大体葵が馬鹿なんだ。高校卒業するときとっとと嫁にいってりゃ傷物にもならずに」
「なんてこと言うんだい、鋼」

ピシャリとキヌがいさめる。


「葵には落ち度なんかないよ。わかってるだろう。あんた、まさか葵にそんなこと言ったのかい？」

母ににらまれてバツの悪そうな顔になった鋼。しっかり者で美人で情の深い、だが不器用な孫を思い浮かべ、キヌは不憫でしょうがなかった。


「一番辛いのは葵だってのに」

むっつり黙り込む息子に、嘆息する。



鋼はキヌと夫の長男だ。下に妹が３人いる。夫はやはり大工だったが、鋼が独り立ちした直後、現場の事故で亡くなった。数年後、鋼が幼なじみの千代と結婚してしばらくまでキヌも同居していた。葵は初孫でそれこそ眼の中に入れても痛くないほど可愛がったものだ。

銀が生まれる前に、鋼の妹で娘のひとりが出産後身体をこわした、キヌは手助けにそっちへ同居して今に至る。


下町で生まれ育って６０年。四つ木工務店とは夫の代でも古くつきあってきたから、葵の縁談を喜んでいたのだけれど。


「下町の人情も変わるねぇ」
「おふくろ」
「直哉が悪い人間だとは思わないけど。……葵が可哀想に」

母を亡くした時できれば戻ってやりたかったが、身体の弱い娘と、その孫たちのためにキヌは動けなかった。

小学校高学年の年から葵はひとり、気性の激しい父親とぶつかりながら懸命に弟たちを面倒見てきた。婚約の報告に来た時の、稀にしか見せないはしゃいだ表情がほほえましくて、嬉しかったのに。


「どうしようもないのかい」
「駄目だありゃ。ゴリ押ししたところで葵がみじめになる」
「そりゃあ……そうだねぇ」

両手に包んだ湯飲み茶碗にキヌはため息を吹き込んだ。


ひ孫の顔を見るのはもう少し先か。葵には打撃だったろう。ひょっとすると銀か鉄のほうが先に結婚なんてことになるのかもしれない。あの娘の花嫁姿は綺麗に違いないのに。


老いた母と向かい合う鋼の顔もしかめっつらだ。やりきれない沈黙は遮る者もなくいつまでも続いた。





　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　＜　08　/ end　＞