「葵！　葵はいるかー！？」



父の声は戸が開く音よりも早かった。近所中に自分の不機嫌を知らしめたいらしい。二階で勉強していた銀は顔をしかめた。

父が怒鳴るのは日常茶飯事だが、姉を呼び立てるのは何度聞いても気持ちのいいものではない。姉が傷つくことが多いからだ。



父、日高　鋼は人間としてはごくまっとうだと銀は思っている。学はないが正直だし大工の腕はとびっきり。仕事では上にも下にも同じ態度で、口は悪いが親身になるし情もあり皆から慕われている。


反面、ちゃきちゃきの江戸っ子気質かたぎ　で。家では我が儘な上かなりの男尊女卑だ。母にも三歩下がって夫を立てろなんて時代錯誤をそのままやらせていた。賢い母は夫の気性や短所長所も全て承知の上で、退いたフリして巧く扱っていたと今になって腑に落ちる。

父の困ったところは母に対する態度をそのまま姉にスライドさせている点だ。女房と娘は違うことをわかっていない。ついでに姉もわかっていない。頭が良くて美人できっぷのいい葵が、父に対してはどこか萎縮していいなりなのを、銀はずっと歯がゆく思ってきた。

父について姉と銀の見方が違うのは男女の違いなのだろうか。母がいれば姉はとっくに父へ反乱を起こしていたに違いないのに。一人でいろいろなことを背負いすぎる姉。


「どういうことだ。就職？　直哉との結婚はどうする気だ！」

父の大声にハッとして、銀は階下へかけ降りた。





夕飯の支度をしていた葵はジーンズにエプロン姿。居間で父と向かい合っていた。いつもとは違う、引かない意志を感じるのだろう、父の苛立ちが増す。


「卒業したら嫁に行くんじゃなかったのか。俺りゃあてっきり」
「就職する。こないだ面接も受けたの。直ちゃんの勤め先に秘書課ができるんだって」
「直哉の？　あいつも承知か？」
「うん」

「おまえら、親に相談もしねえで何だ。嫁に行けってあれだけ」
「銀を大学に行かせたいのよ」
「なんだとぉー？」

仲裁に入ろうとした銀は立ちすくみ、ポカンと口を開け姉を見下ろした。決意のまなざしで父を見据える彼女。


「大学だぁ？　何言ってやがる。銀は高校出たら俺のあとを」
「建築。やりたいのよ。そうでしょ銀？」

誰にも言ってない。言ったことはない。どうして知ってるんだろう。
是とも否とも言えず銀はゴクリと喉を鳴らした。


銀は葵こそ進学したいのだと思っていた。高校ではずっとトップクラスの成績で。もしそうならとりあえず奨学金で、２年経てば自分も就職だから手伝える。父をそう言って説得しようと思っていたのに。まさか自分のことなんて。


「銀？」

葵のまなざしが優しく返る。いつもそうだった。弟と違って素直でも従順でもない自分を姉はちゃんとわかってくれる。ちゃんと見ている。欲しいもの。望むこと。自分自身は後回しにしてでも。


「…葵、だめだ。俺より葵のことが先だ」
「決まってんだろ、葵。おまえは直哉と」
「あたしたちは婚約してるのよ。２，３年伸びたってどうってことないわ」

「なら葵だって進学すれば」
「馬鹿言ってんじゃねえ。女が大学なんか」
「銀。あたしは秘書になりたいの。そりゃ大学行くことも考えたけど、社会でキャリア積みたいの。そうすればあんたの進学の費用も作れて一石二鳥じゃない？」

銀は泣きたくなった。泣きそうだった。無愛想で仏頂面の自分を泣かせるのはこの、二つしか違わないのにずっと年上みたいな顔をして頑張る、姉ぐらいだ。


「聞いてんのか？　俺はそんなの」
「父さん！」

滅多に聞かない葵の大声が父に向かって放たれた。珍しいからこそ伝家の宝刀。父にとってすらそうだ。そういう時の葵はなにしろ、いざというときの母にそっくりだから。


「お願い。父さんの仕事を継がないわけじゃないわ。逆よ。銀は父さんみたいに家造りが好きなの。だからもっと勉強したいのよ。させてやってよ。母さんだって絶対そう言うわ」

母の名前にぐっと詰まった父は、何度も息を吸い込み飲み下す。やがてフーッと息を吐いて銀を見た。


「ちゃんと、自分で言え」

まさか今夜、こういう話になるとは思ってもいなかったが。葵がくれたチャンスを無駄には出来ない。銀は父の前に座った。


「俺、高校出たら大学で建築を学びたい。いずれは一級建築士の資格も取りたい。大学に行かせてくれ、親父。頼む」

胡座をかいた膝の上で拳を握りしめ、父に頭を下げた。横で葵が一緒に頭を下げるのがわかって、目頭が熱くなる。沈黙のあと、父の舌打ちが聞こえた。


「わかった」

ぱっとあげた眼に、苦虫を何匹もかみつぶしている父の顔が映る。葵の声が踊る。


「父さん。ほんとね？」
「男に二言はねえ」
「じゃあ、あたしの就職もね？」
「俺の稼ぎに文句あるってのか」
「だって父さん。そうしなきゃ余裕ないわようち」

断言されてムッとしつつ、なおも鋼が主張する。


「なら結婚して共働きすりゃいいだろうが」
「そこまで急ぐことないって、直ちゃんも」
「なんだそりゃ。おめえらうまくやってんのか？」
「やってるってば。今時卒業してすぐ結婚する方が驚きよ」

今ひとつ納得しがたい鋼がブツブツ言うスキに、葵が銀の手を握りしめた。


「銀、良かった」
「ほんとにいいのか葵。直ちゃんは納得してるんだな？」
「しすぎるくらい」

妙な言い方だなと銀は思ったが、葵は笑顔だ。


「その代わり国公立めざしてよね。しっかり勉強しなさい」

この、アメとムチが葵の凄いところだ。銀は意地で涙を振り払った。


「まかせとけって」
「たっだいまー！　……雁首そろえて何事？　おれ腹へった。飯は？」


小学６年にしては背の伸びすぎた鉄がサッカーの練習から帰ってきた、ということは夕飯の時刻だ。


「ごめんごめん、今すぐね」
「なんだよ葵。呆けた？　…イテェ！　銀、何すんだ」

頭をはたかれて鉄がぼやく。


「風呂入ってこい。葵、手伝う」
「おめえら！　俺は無視か？」
「父さん、お酒つけるから」
「……おぅ。わかってんじゃねえか」
「父ちゃん？」


鉄は首を傾げながら風呂場へ消える。狭い台所では、嬉しげに夕飯の支度をする姉の姿。銀はその背中を拝みたいほどだ。

密かな夢だった大学に行ける。ほんとに行けるんだ。葵のおかげで。よし、やるぞ。一級建築士めざして。いつか必ず、葵を世界一幸せにしてやれるように。


「銀、これ洗って」
「いいけど葵、お燗がふいてる」
「うそっ」

「おい！　ふかすんじゃねぇっ！」
「……地獄耳だな親父…」
「ねえちゃーん、腹へったぁー」


しばらく後の夕飯はいつにもましてにぎやかで。
日高家の昨日とよく似た、でもまるで違う一日が暮れていった。





　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　＜　06　/ end　＞