人はいくつになれば、死というものを理解できるだろう。


父が死んだ時、乙女は５つだった。長患いならともかく、家族の誰もをあ然とさせた急死は幼い乙女にすれば突然の失踪と同じ。通夜でも葬式でも、父の不在を不思議に思うのが精一杯だった。


数日の慌ただしさはすぐにぼやけ、日常に追われて記憶は片隅に追いやられる。子どもの多くはそうしたものだ。いなくなった父よりも、別人のように変わってしまった母の方が乙女には衝撃だった。


母の小町はいつだって若々しく（実際若かったが）、茶目っ気がありニコニコとしている人だった。父と居れば何より幸せそうで、やっぱり父が好きだった乙女が二人の間に割り込むと、目に入れても痛くない末娘でもたまに本気でにらみつけることもあった。


それほどまで父が全てだった母は、葬式が終わると床につき、なかなか起きあがれなくなってしまった。





寂しさと心細さに泣く乙女のそばに代わりに居てくれたのは、姉たちと兄だった。特に兄の光は、足りなくなった二人分を埋め合わせるように乙女の面倒を見てくれた。

起きる時も眠る時も、幼稚園の送り迎え、食事、洗濯、その他。苛立ちをこめた乙女の我が儘も、時に叱り時に宥め甘やし、拒むことなく応えてくれた。

あまり似てないと思っていた父の面影を光に見つけ、乙女が兄を崇拝するようになったのも無理はなかった。父の死後、乙女にとって兄はその名のとおり光だった。



姉たちも乙女には優しかった。なかでもすぐ上の初音は、年が近い（といっても４つ上だが）こともあり光の次に頼りにした。上二人のしっかり者でテキパキハッキリした性格に対し、初音はのんびり穏やかだったのも乙女には幸いだった。

癇の強い乙女がきついことを言っても笑って流してくれた初音。料理上手はこの家は誰でもだが、初音は特にお菓子作りが得意で乙女を喜ばせた。鷹揚さと寛容さが三女の長所だった。





父の死から優に一年は過ぎていただろうか。或る夜、怖い夢で乙女は目を覚ました。

並んだベッドに姉がいなくて驚く。暗い部屋に眼を凝らすと、初音はドアのそばで外をうかがうようにしていた。別人のような表情の姉に、夢の続きかと乙女が息をのむ。気配に振り向いた初音は眉を寄せた。

「乙女？　起きちゃったの。夢でも見た？」


初音がどうしてそっとささやくのか乙女にはわからなかった。まるで誰かに聞かれまいとしているみたい。思わず乙女も囁き声になる。

「初ねえどうしたの？　誰かいるの？」


はつねえ、とは「初音姉　はつねねえ　」が縮まった乙女独特の呼び方だ。初音はいつものように微笑むけれど、何かがいつもと違う。

「誰も。ちょっとトイレに行ってきただけ−」


初音は不意に黙った。足音が部屋の前を通り過ぎていく。大きくはないが恐る恐るでもない、無造作な歩き方。


乙女達が住む洋館は広い敷地に建ち、間取りもゆったりしている。２階は大小合わせて５部屋。父母の部屋が向こう端で、兄・光の部屋がこちら端だ。乙女と初音の部屋の先には光の部屋しかない。


足音が止まった。続けざまにノックが響く。誰かが光の部屋のドアを叩いている。低く、でも確かに続く音が乙女の恐れを煽る。

「は、初ねえ、だれ？　誰が叩いてるの？」


がちゃがちゃドアが鳴るのは鍵がかかっているからだろう。
鍵？


乙女はまた驚いた。ドアに鍵はついているが、かけることなんて滅多にない。光の部屋だってそうだ。それとも。

なにか訳が？


ガチャガチャ、トントン。交互に忙しなく響く音が乙女をどんどん脅えさせた。今にも泣き出しそうだ。

「初ねえ。初ねえ？」


ドアの向こうをじっと伺っていた初音は振り向いて乙女を見ると、跳んできて思いがけぬことを言った。

「泣いていいから、乙女。泣きなさい。泣いて、光を呼んで！」


火に油とはこのことだ。乙女の不安や恐れは光の名前で引火した。

「っ……ゃああああーっ！」


ほとばしるように泣きだした乙女は、呼び慣れた名前を絶叫した。

「ひっ、光、ひかりぃー！」


泣きながら乙女は聞いた。部屋の前を駆け抜けていく足音。直後、鍵と扉が開く音。一瞬後には乙女たちの部屋に光が飛び込んできた。


「乙女？　乙女、どうした」
「いやっ、いやーっ、こわいー！」

自分よりずっと大きな彼の首っ玉に齧かじ　りついて、乙女の泣き声はさらに高まる。宥める声など聞いてない。妹の背中をなでながら説明したのは初音だった。


「夢を見たらしいの。怖い夢。ね、乙女」

明らかに間違った説明だったが、泣きじゃくる乙女は何も言えず。やがて光に抱かれたまま寝入ってしまった。





翌朝、目覚めると上天気だった。

先に起きる初音がカーテンを開けておくのはいつものこと。大きな窓からふりそそぐ朝陽で、隅々まで明るく照らされた部屋。

ポカンとしていた乙女はやがて、夕べのことは全て夢だったと決めこんだ。初音にも聞かない。もともとは眠りが深いタチで、その後夜中に目覚めることもなかった。


うん。あれは夢だ。

心配そうな初ねえも。
足音もノックも。
抱きしめてくれた光の手の震えも全部、　夢。

……でも。





夜の闇の奥底に潜んでいるのは。

何？





全てが白日の下に曝されるのは、三年後のことになる。





　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　＜　05　/ end　＞