週末の宿題は算数だった。作文よりいいが、マシな程度。国語と算数。鉄の中での好悪はどっこいどっこいだ。


小学校３年生。学校で何が好きと聞かれると、燦然さんぜん　と輝くトップはやっぱり体育。次が給食（勉強はいう突っ込みはシカト）、３番目は図工か音楽かで悩む。あとはドングリの背比べ。


だからって宿題はなくならない。今年の担任は新任の女の先生。優しい笑顔が気に入ってるからあまり怒られたくない。日曜の夜、鉄が姉に助けを請うたのはそういうわけだった。


「ほら鉄、よく見て。ここは繰り上がり」
「えー？　あぁそっか。５たす６だから」
「そう。１繰り上がって」
「そんでもって、４とぉ２とぉ……」


辛抱強い姉は教え方も上手で、鉄のすぐこんがらがる頭をうまく交通整理してくれる。

すぐ上の兄、中一の銀も教え方はうまいけど、男同士は容赦がなくて喧嘩になりやすい。１０分もすれば取っ組み合いだ。喧嘩も手抜きしない。して欲しい訳じゃないが、４つも上なのに大人げないなとたまに思う。だからつい葵に頼る。


幼稚園の時に母が死んでから、葵は鉄にとっては姉であり母であり。女全部をひっくるめた思慕の頂点に君臨する。美人で頭が切れてきっぷが良くて。自慢の姉貴だ。


「…そっか。２７１だ」
「できたね」
「うん！　じゃ次は」


「鋼さん、いるかいー？」

野太い声が階段の下、玄関の方から聞こえてきた。頭をつきあわせていた机から葵と鉄は顔をあげる。よく知っている声。


「四つ木の親分だ」

鉄の大人を真似た言いぐさに、こらと顔をしかめる葵。

「飲みに来たのかな」
「多分ね」


四つ木の親分とは四つ木工務店の主、忠治のことだ。大工の棟梁である鋼とは幼なじみで、時に仕事の請負先でもある。

鋼の腕はこのあたりでは折り紙付きだが、不景気で仕事量は減った。忠治が下請けを回してくれなければ日高家の家計はもっと苦しかっただろう。そんなことを言うとぶっ飛ばされるに違いないけれど。

ちなみに「親分」とは名前から。国定忠治なんて鉄は知りもしないが。



トントンと足音が階段を上ってくる。ふすまを開けたのは銀だった。中学に入ってようやく背が伸びてきた彼の仏頂面はいつものことだ。


「葵。親分が来た。父ちゃんが呼んでる」
「つまみが欲しいんでしょ。鉄？　あとは銀に教えてもらって」
「えー？」
「なんだよ鉄。俺だと文句あんのか」
「ほらほら。最初から喧嘩しないの」

注意しながら行きかけた姉に、銀が言う。


「葵。直ちゃんも来てる」
「え」

葵の顔がパッと染まるのを弟ふたりは見逃さない。


「わ、かった」

あわてて駆け下りる姉を見送って銀はふすまをしめた。


「直ちゃんも来てるのか。俺も顔見てこようかな」
「馬鹿やめとけ。大人の話だ」

そっけない銀の言葉がよくわからない。鉄が首を傾げる。向かいに胡座をかいた銀は頬杖つきながら弟を見た。


「親分と直ちゃんは申し込みに来たんだ、多分」
「申し込みって？」
「葵を嫁にって話」
「……はあ？」

元々声のでかい鉄が思い切り声をはりあげた。冗談かと思いきや銀は真面目だ。


「葵と直ちゃん？　だって直ちゃんのほうがすげえ年上じゃん」
「９つ」
「中学３年でもう嫁さんになれるの？」
「結婚は１６から。どっちみち今すぐなんか無理に決まってる」

「じゃあ」
「婚約。結婚の約束だ。親父と親分は昔からそういうつもりだったんだと。葵だってまんざらじゃないようだし」

鉄はさっきの葵の顔を思い出した。小学３年生にはわかるようでわからない話。とりあえず鉄はわかるところだけで判断する。


「じゃあさ、直ちゃんは俺たちの兄貴になるわけ？」
「……結婚したら、な」
「葵、嫁にいかなきゃいけねえの？」
「そりゃまぁいつかは行くだろ」
「じゃあ直ちゃんがいい。俺好きだもん。秀ちゃんも」


四つ木直哉は工務店の長男だ。下に年の離れた弟がひとり。大学の建築学科を卒業し大手メーカーに就職しているが、いずれは家業の工務店を継ぐはずだ。

家同士が昔からのつきあいで子ども同士も幼なじみ。三人してよく彼に遊んでもらった。面倒見がよく細やかな性格で近所でも人気がある。


たとえ誰だって姉をやりたいわけではないが、やらねばならないなら家も近くて葵も自分も気に入っている相手がいい。鉄にも損得勘定はある。


「まぁね。頭もいいしルックスも悪くないし、勤め先も一流だし」
「なんだよ。銀は反対なのか？」

不遜な口ぶりの兄が鉄は意外だ。今まで直哉と銀がもめた覚えはない。


「昔は好きだったんだ」

銀は言葉を切って口をとがらせ、厳しい視線を部屋の中にあちこちさせた。捕まらない何かを追いかけるように。


「取り越し苦労ならいいんだけどな。何って言えるもんじゃない」

独り言みたいな低い声を、階下からの大きな声が遮った。


「おい、おまえらも降りてこーい！」

上機嫌な父の声。

「早くしろって！」

顔を見合わせた二人は立ち上がると下へ向かった。



案の定、居間には上機嫌の親父たちにはさまれ、ひな人形よろしく二人が並んでいた。葵の嬉しそうな笑顔。頬が真っ赤だ。それを見た鉄の胸がギュッとつかまれたように苦しくなった。あれ、なんで。


「葵は直哉の嫁さんに決まった」

四つ木の親分が宣言する。予想していたとはいえ眼を見張る銀たちに葵があわてて言葉を足す。


「あ、あのね。まだ先よ。早くても高校卒業してから。受験だって今からなんだし」
「てやんでぇ、今すぐいっちまえ」
「父さん無茶言わないで」
「おじさん、それじゃ僕が警察につかまります。葵はまだ１５ですって」

直哉が苦笑するが、鋼はてんでおかまいなし。


「とにかくだ。そういう約束が出来たってこと、おまえらにも知らせとかねえとな」
「銀、鉄。　僕が葵をもらってもいいかな」

直哉の穏やかな問いが鉄の胸をまた締め付けた。でも、葵が嬉しそうなので空元気で「うん」と答えた。銀はというと仏頂面で頷いたが、こっちはいつものことなので誰も気にしない。


「よっしゃ。酒だ酒。おまえらも飲め」
「おじさんてば。小学生と中学生に駄目よ、いくらなんでも」
「俺の息子ならガキでも飲める！」
「そーだそーだ。二人とも飲め！　これでうちとおまえらは正真正銘親戚だぞ」
「ふたりともいい加減にしろって」


舞い上がる鋼と四つ木の親分。赤い頬のまま支度へ走る葵。にぎやかな雰囲気に胸の痛みも薄れ、鉄はすっかり嬉しくなったのだけれど。　じっと直哉を見ている銀がいつまでも気になった。


まるで真贋を見抜くように、直哉をみつめ続けた兄。



その不安な光景を、何年かあとに鉄は思い出すことになる。
予想もしなかった悲しい形で。





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