「親父が死んだんはほんまに突然やった。突然すぎて俺の家族はみんな、簡単には受け入れられんかった」

かなり端折った話に鋼は黙ってうなずいている。どのくらい葵が伝えているのか、それとも全く知らないのか、判断はつかなかった。

「真っ昼間に居間で倒れとるんを俺が最初に見つけて。そん時はもうどないもならんかったて、検死でも言われたんやけど。通夜して葬式すんでもみんな気持ちがついていかんかった。特におふくろはひどうて」

仕方なかったと光もわかっている。平凡で平穏で幸せな家族だった。昨日も今日も明日も続くと信じていた日々が、突然断ち切られてしまったら、どう受け入れろと言うのか。

「家事も妹らの世話もできんようなって。昼は部屋に閉じこもって、夜は親父を探して家の中をさまようとった。俺の部屋に寝顔を見にもきた。俺は親父に似とったから」

葵の手をもてあそびながら、ここでない場所と時間を思い出す。

「おふくろはおふくろなりに、現実と折り合おうとしとった。けどできんかった。俺を責めるようになって、二人で言い合いしてわめき合うて」

声が沈む。

「姉ちゃんらは就職と受験があった。妹らは親父とおふくろがどっちもおらん生活に慣れなあかんかった。それぞれ自分のことで精一杯やのに言われへん。そんでもおふくろはどんどんおかしゅうなって、そんで」

続きを光は迷った。母にも確かめたことのない出来事を口にしていいのか。葵の首に巻いた包帯が白く迫る。話さなきゃならない。何度目かの覚悟を決めて、葵の手を離した。

「ある晩、苦しゅうて目が覚めたら、俺の真上に鬼がおった」

意味がわからないのだろう、葵たちのいぶかしげな顔が、光の記憶を掘り下げた。思い出すまいとしてきた過去を、見すえた。





目を開けたら、髪振り乱して真っ赤な目をつり上げた鬼が、光の腹にまたがり、顔をのぞきこんでいた。

ほんとうに怖いとき、声は出ない。その時も出なかった。全身が強ばり冷や汗をかきながら、目の前の鬼を見つめるだけ。夢だ。悪夢だ。早く起きろと言い聞かせても、いっこうに目は覚めない。

「起きて」

鬼がしゃべった。
母の声で。
母の？

これ以上できないほど見開いた目が、鬼の中に辛うじて母を見つけた。今にも消えそうな母の、かけら。ろくに食事もとらなくなり姿も見せなくなっていた母の。

ぐっと手を引かれて「ひっ」と喉が動く。かまわず鬼は、母は、光を引き起こし、二人でベッドの上で向かい合った。

どこから力を出しているのかと思うほど、母は見る影もなくやせ衰えていた。照明をつけていない部屋。窓から差し込む街灯と住宅街の明かりが、母の顔を灰色と黒に塗り分け、鬼でなければ骸骨そっくりだ。

骨と皮のような手に左右の手首をつかまれ、ゆっくりと持ち上げられた。意味が分からず成り行きに任せていたら、光の両手は母の首を握るよう添えられた。

「締めて」
命令は意味なく耳を抜けた。
「締めなさい、締めるの」
ガラガラ声に当惑した。
だってそんなの。幼稚園児の乙女だってわかる。締めたら。

「死なせて」

ピンボールがぶつかってぶつかって穴に到達するように、言葉はようやく脳まで到達して光に激しいショックを与えた。
「やだっ」

突き飛ばし離れようとするが、光の両手はがっちり鉄の輪のようにつかまれて動かない。
動けない。

「離せよ、はなせっ」
「締めるの」
「死んじゃうよ」
「死なせて」
「どうして」
「お父さんがいないわ」

何度も言われた。父を死なせたのは自分だと。否定して否定してそれでも、心のどこかで疑っていた。自分が父を殺したのかと。

「だから」

母も、自分が、殺せというのか。

やめろと、やめてと言おうとした光は、母の目を見た。果てしない闇だった。ただ落ちていくしかない、どこにも逃げられない底なし沼のような。ここに落ちたら抜け出せない気がした。ここに居続けるなら死ぬ方が楽だろうか。もしかしたらその方が。

ちらりと湧いた疑問が恐ろしかった。
ほんとうに母の首を締めてしまうと思った。

背はとっくに母を越え、サッカーで鍛えた身体は家族で一番大きく強かったが、家族を力任せに扱ったことなど一度もなかった。女性には優しくなどと言われなくても当たり前のことだと教えられてきたから。

初めて母に全力をふるった。足で腹を蹴り、腕を振り払う。ベッドから転げ落ちて傷みにうめく母の手を、今度は光がつかみ部屋の外まで引きずった。廊下へ押しだし、ドアを閉める。

鍵をかけた。

ドンドンドンと扉をたたく振動が背中に痛かった。意味をなさない叫び声がドア越しに聞こえる。罵っている。怒っている。呪っている。耳を塞いでずるずると座り込み頭を抱えた。

震えていた。
恐れていた。
母を。自分を？

気づくと朝になっていた。
汗と涙で全身が濡れていた。





話し終えるまで誰の顔も見なかった。
話し終えても顔が上げられなかった。

「それから寝る時は部屋に鍵をかけて。可能な限り夜は家をあけた。いろんなことがあって高三の時に大騒ぎになったんは、こないだ話したとおりや」

返事は求めない。

「おふくろはなんとか正気づいて戻ってきた。俺は大学からうちを出て、家族も頑張って暮らしを立て直した。それも話したな。全部、昔のことや。うちを離れてから忘れとったのに」
「思い出すようになったの？」

静かに、ごく静かに葵に聞かれたのでうなずく。

「いつから」
「……春頃、夢を見た。一度か二度や。それが、結婚の話が進むにつれて夢の回数がどんどん増えて。なんでやろ、なんでかわからへん。しまいに毎晩になって」
「ずっと、寝不足だったわね」
「せやけど、まさか。葵の首を絞めるやなんて」

やっと葵を見た光は、彼女の涙に顔を歪めた。

「泣かんといて、堪忍や。あぁほんま」

指で涙を拭おうと伸ばした指を止め、距離を保つ。
光は鋼を振り返った。

「はっきり覚えとるわけやないけど、葵の首を絞めとった時、俺はおふくろを見とったて思う」
「おふくろさんの首を絞めてたってのか」
「お父さん」
光の顔はさらに歪むが、目はそらさない。

「あの時、俺にはどうしてもできんかったけど、ちらっと迷うたんも確かや。おふくろのこと本気で憎んだこともあった。俺ん中にそないな感情がしこって、凝り固まっとるんかも。頭おかしゅうなっとるんかもしれん。なんで今頃とは思うけど」

鋼へと膝を向け座り直す。後ろの葵の気配は無視する。

「せやからすんません、結婚はなかったことにしてください。大事な人がわからんと首絞めた奴に結婚の資格なんかない。堪忍してください」

光は鋼にむかって額をすり付けた。家族に、鋼に納得してもらうのが自分から葵を守る最善の方法だと思った。鋼も銀も鉄も納得すると確信していたから、その場の沈黙に何の疑問も、期待も抱かなかったのだが。

背中をいきなり叩かれて、びっくりした。
二度、三度。

「っっあお、い？」

ふりかぶった枕をまたぶつけられる。葵の顔を見た声がしぼんだ。涙はさっきも見た。光を怯ませたのは怒りだった。

「ばか！　まぬけ！　あんぽんたんの唐変木のひょうろくだま！」

顔と言わず肩と言わず腕と言わず、何度も何度も繰り返して枕で叩かれる。所詮枕だ。痛いわけではない。痛いのは気持ちだった。銀も鉄も、鋼まで驚いている。

「落ち着け、葵」
「うるさい！」
娘に怒鳴られて鋼がぎょっとしている。銀が焦る。
「ちょ、葵」
「あんたたちなら諦めるっていうの？　闘わないつもり？」
銀がぎくっとした。鉄の目も泳ぐ。
「わかってない！　女の、私の気持ちをなんにもわかってない！」
泣きながら葵が叫ぶ。

「何も話してくれないで、全部ひとりでしょって終わらせようとしてる。でも違うでしょ。結婚てそうじゃないでしょ？　少なくとも私はそんなこと望んでない！　守られるだけなんて、それが光と離れることだなんて絶対、絶対認めない！」
「俺は、んぐっ」
顔面に枕を食らって、眼鏡がとぶ。

「結婚をやめて、私と別れれば光の苦しみが終わるの？　そうじゃないでしょ。ただの逃げよ、逃げてるのよ！　それでどうなるっていうの！　なんで一緒に立ち向かわせてくれないのよっ」
「俺はおまえの首を締めたんやぞ？！」
とうとう光は怒鳴り返していた。

「二度とごめんや！　大事な人をまた殺すやなんてごめんなんや！」
「光は誰も殺してないっ！」

即座の反論は鞭のように鋭くて、それでいて確信に満ちていた。信頼と思いやりに泣きそうになりながら負けまいと声を張り上げる。

「やったらどないせえっちゅうねん！」
「なんでわかんないのよ、おたんこなすのすっとこどっこい！」

部屋の真ん中に突っ立ってふたりでにらみあった。

真っ赤な頬で両手を握りこぶしに荒く息を吐いている葵。うつむくと涙でぐしょぐしょの顔を手の平や甲で拭って鼻をすすった。子どもみたいな仕草に、こんなときですらこみ上げてくる気持ち。

口が悪くて手が早くて頑固な、愛しい女。


きっと顔を上げて、葵は言った。

「顔洗って着替えたら行くから。光も支度して」
「……行くて、どこへ」
面食らう光にかまわず、家族を振り返る。

「銀は今日休みよね。車出してくれる」
「どこへ」　銀がリピートする。
「鉄とお父さんは仕事だよね。朝ご飯とお弁当は適当にして」
「適当だぁ？」　鉄が抗議する。
「子どもじゃないんだから。光、急いで」
「だから、どこ行くんや！」
「親をばかにしてんのか、葵！」

しびれをきらせた光が、鋼まで怒鳴る。
さっさと仏間を出て居間を横切りながら、葵が叫んだ。

「光んちに決まってるでしょう！」

階段を上る音がふすまの開け閉めする音で結ばれてから、取り残された男たちが顔を見合わせた。

「……俺んち、て」

源の実家？
それはつまり。

「あぁああもうううう、畜生っ、勝てねえ！」

銀が頭を抱えてしゃがみ込む。
鋼は鉄に早口で何か言って部屋を出て行く。鉄が後を追いかける。

俺。
俺は、どうする？

ぼうっとしていたら背中をどやされた。
銀の呆れたような諦めたような顔からは、さっきまでの敵意がない。

「親父を怒鳴る葵は最強だぞ。あんたも腹くくった方がいい。それともやっぱり、やめるか？　結婚」


どんな顔をすればいいのかわからなくなった。
尋ねられるってことはまだ望んでもいいんだろうか。ほんとうに？
考えるより先に言葉が出ていた。

「最強やのうて、最高や」

銀にもう一度背を叩かれ、笑おうとして泣きそうで顔を背けた。


諦めたくなかった。
最強で、最高の女を。