夜も明け切らぬ時間、日高家へ駆けつけた医者は、隠居老人のような好々爺こうこうや　だった。

湯田医院は戦前に開業して以来、三代に渡って診療していて、地域で信頼されているという。七十を越えても現役の湯田は日高家こぞってのかかりつけらしい。

「棟梁んちはいつになったら落ち着くんだか、怪我ばっかしおって」

年季の入った往診カバンを手にスタスタ上がり込むと、居間でうつむいて座った光の前にしゃがみこみ、顎をつかんだ。

「やられっぱなしか。無抵抗な奴を殴るのは日高のやり方と違うだろ」
「そいつじゃねえよ、先生」

遅れて飛び込んできた銀が、乱暴に湯田の腕をつかんだ。ふわりと銀の体が浮いてダン、と畳に仰向けでねじ伏せられた。放心気味の光も驚く早業だ。

「いっってぇええ」
「日高の兄貴は冷静沈着が売りじゃろうが」
「んなもん売った覚えはねえよ、そいつは殴られても殺されても当然、ぃてえって」
起きあがった銀の頭に拳固が落ちる。
「医者にきく口か、ばかもん」

さすが下町。好々爺も、医者まで手が早い。
それはともかく。

「すんません、俺やのうて葵を」
「葵？　葵ちゃんがどうした」
「だから奥だって、頼むから早く診てくれよ」

銀の声が頼りない子どものようだった。あわてて立ち上がった湯田が銀と奥の仏間へすっとんでいく。いつもは鋼の寝間だが、気を失った葵はそこに運び込まれていた。

光もそばに居たかった。無事を確かめたかったが、許されるはずがないし、銀鉄が断固として拒んだ。

「葵を殺そうとしたのはあんただろ」

正座した膝の上で広げた手のひらを見下ろした。
震えているこの手が、指が。
葵を。

目を閉じ両手を握りしめる。波のように繰り返し襲ってくる罪悪感に耐えることしか今はできない。殴られた痛みなんて痛みに入らない。葵に何かあったらと思うだけで心が真っ黒になる。それだけは。

信じてもいない神様にこんな時だけ祈った。
自分のことは呆れても見捨ててもいい。葵だけは。

見捨てられるのはもう、わかっているから。


目を開けたのと触れられるのは同時だった。湯田がさっきの場面をリピートするように光の前にしゃがみこんで、顎を持ち上げ傷を確かめている。

彼の右側には忠実な犬のように往診カバンがうずくまり、口を開けていた。ピンセットで消毒綿がつまみ上げられ、顎に冷たさと痛みを感じる。傷の手当てをされているのをようやく自覚した。それよりも。

「葵は」
「大丈夫じゃ。ちぃと黙っとれ」

左の目の回りがしみる。そういえば眼鏡はと見ると、畳んで寄せたふとんと押入の間で押しつぶされそうになっていた。左顎と左目に大小の貼り薬が張られた。

「他に殴られたとこは」

首を振った。ぶつけたところと蹴られたところはあるが、殴られたところはない。湯田は疑わしげな顔をしたが、服をめくりはしなかった。
「葵ちゃんは心配ない」
真正面から湯田を見る。

「わずかの時間じゃったろ、呼吸も正常、気管も痛んではおらん。意識を失うたのは急な酸素過多とショックじゃな。しばらく休めば心配いらん」
淡々と告げる湯田は見通すように光をみつめ、光はその目に耐えた。
「睡眠不足か」
「……夢見が悪うて」

聞かれたら答えるべきだが、どう答えたらいいのか迷う。湯田はしかし、それ以上聞かなかった。
代わりに。
「葵ちゃんがあんたを呼んどるよ」
驚いて、それから首を振った。

「鋼さんもだ。銀鉄は逆らっとったが親父と、姉ちゃんにゃ勝てんわい。おふくろさんもそうじゃった」
「おふくろさんて葵の？」
「千代さんはわしが看取ったんじゃよ。日高ん家は男が威張っとるが実は、女子おなご　が支えとる。千代さんがいったあとは葵ちゃんが頑張ってきたのう」
往診カバンを閉じて湯田はもう一度、光を見た。

「その葵ちゃんから逃げたら、二度とここんちの敷居はまたげんぞ。ちゃんと向き合うて来い。全部さらけ出してしまえ。良かれ悪しかれ、前に進むんはそこからじゃ」

いつ気づいたのだろう、布団に押しつぶされていた眼鏡をとって光に渡してくれる。戸惑いながらそれをかけると、男前が眼鏡かけりゃ三割増しだが、貼り薬で三割減じゃなと、笑って背中を叩かれた。

「ほれ、会ってこい」

迷ったが、逃げるわけにはいかなかった。
葵を傷つけた、その訳を葵は知る権利がある。

立ち上がった光はゆっくり奥へと向かった。コキコキと首を鳴らし、往診カバンを抱えて帰っていく湯田を見ることなく。



踏み込んだ部屋ではそれぞれだった。仏壇の足下に敷かれている布団の、向こうから銀が今にも飛びかかりそうな目つきでにらみつける。銀の左、鉄の表情は怒りと当惑でまっぷたつに割れている。

鋼はというと、布団の手前であぐらをかき腕組みして目を閉じていた。葵を傷つけたら一番荒れ狂うと思っていた鋼が、一番冷静なのが光には意外だった。
それから。

「ひかり」

かすれた声に呼ばれて、つきっと胸が痛んだ。ゆっくりと起きあがる彼女がパジャマ姿だと今になって気づく。首に巻かれた包帯の白さが光を苛む。

けれど葵は、葵の顔はいつもと同じだった。責めや怒りや怯え、光が予想し怖れていた感情は不思議なくらい見あたらない。

あるのは気遣いと、そして問いだ。
差し伸べられる手は迷うことなくまっすぐ。

今、その手を握れるなら自分の持っている全てを差し出してもかまわなかった。その資格がもうないとわかっていても、彼女の手を取らないためにはありったけの努力が必要だった。

障子を閉めて正座し手を突くと、彼らに向かって深々と頭を下げる。

「すんませんでした」

営業を仕事とすれば土下座のひとつやふたつの経験はある。軽い気持ちでやったわけではないが、これほど真剣に心から人にあやまったことはない。沈黙が怖くないのは、許されることを期待していないからだ。

「ひか、り？」

葵の悲しみが声に滲む。
畳に額をすりつけたまま、光は続ける。

「言うまでもないですが、結婚の話はなかったことに」
「あったりめえだろ！」
「殺されかけて嫁にやるか！」
「やめて」
銀鉄の怒鳴り声をそれでも遮る葵に、負けるわけにはいかない。

「結納もせんうちにほんま」
「とっとと出てけ！」
「おまえの顔なんか二度と」
「やめてって、……ゲホゲホッ」

まだ喉が苦しいのだろう、大声を出した葵がせき込む。思わずいざりよったが、背中をさする銀、鉄の目に拒まれる。
「行っちまえよっ」
「だめ」
つい立ち上がろうとした光の手首をつかんで、葵が止めた。

「葵、そんな奴ほっとけ」
「手ぇ離せよ」
苦しそうなのに葵は必死で光をみつめ、訴えてくる。銀が無理に指をはがそうとしたするのにも激しく逆らった。

「やめて」
「葵」
「直ちゃんが婚約解消を言い出した時、私は闘わなかったわ」
銀が驚いて葵を見た。

「闘っても同じだったかもしれない。でも闘わなかったことを今は後悔してる。同じことを繰り返したくない。直ちゃんよりずっともっと光が好きなの。光は私を裏切ったりしない。今度はあきらめない、闘うから」

葵の揺るぎない信頼と決意が、光の心を震わせる。

「バカいうな」
「葵、落ち着け」
腕組みして動かなかった鋼がそこで目を開けた。

「銀、鉄、やめとけ」
「だって親父」
「おめえらしくねえな銀、ちっと頭冷やせ」
「葵が殺されるとこだったんだぞ、できるかよそんなの！」

「葵が、か？」

ゆっくり繰り返す鋼の視線に光が怯む。亀の甲より年の功だ。力任せの頑固親父と思ったら大間違い、このひとが一番、鋭い。

「葵の首を絞めてた時、あんた誰を見てた。何してたんだ、夢ん中で」

鋼の言葉と光の顔色を見て、いきりたっていた銀と鉄の勢いが削がれた。葵はやっぱり光の手首を握りしめている。

「勘違いすんなよ。俺だって娘を殺されるなんざまっぴらごめんだ。だがな、葵が根性据えて選んだ相手だ、そうそうろくでなしとも思えねえ。でなきゃ俺の、日高の目はこぞって節穴ってこった。違うか、銀」

反論できないのか、銀が黙り込む。鉄もだ。

「葵にここまで言わせたんだ。あんたにゃ話す義務がある。そうだろ」

したくなかった。だが鋼の言うとおりだし、そのために光はここに来た。
葵が闘うというなら、光も闘わなければならない。
自分自身と。

葵の横に座りなおした光は、彼女の手を手で包み込んだ。

「話します。聞きええ話しやないけど」

ピン、と空気が張る。
葵の温もりだけが光の道しるべだった。