週末、九時過ぎに家に帰った葵は、光に出迎えられてびっくりした。

引き戸の敷居を片足またいだ状態で、思わず家を確かめる。
うちよね？
あれ、なんで？
玄関に座り込んだ光は、満面の笑みが今にもグズグズに溶けそうだ。

「葵いぃ、おかえりぃぃ」
「なんで居るの、ってもう酔ってるじゃない」
「酔っとるでえー、会いたかったわぁー」
「ちょ、こらばか、落ちるってば」

上がりかまちから両手を広げて抱きつこうとするので、今にも土間に落ちそうだ。あわてて抱きとめたら後ろから弟たちが顔を出す。

「なんだ葵か。帰るなりラブシーンかよ」
「せやねーん、ラブラブやねん」
「何言ってんのよ光、鉄も」

「葵の足音で飛んで来たわけか。酔っぱらってんのに犬みてえだな。忠犬だ忠犬」
「やめなさいよ銀、そのいいぐさ」
「おめえらー、酒の途中で消えんじゃねーよ」
「……とうさんっ」

居間のちゃぶ台で一升瓶を振り回している父の姿に、とうとう葵が怒鳴った。三人、じゃない四人がこぞって首をすくめる。

ラブシーンが聞いてあきれる。これじゃ恋人どころか娘でも姉でもない、やんちゃ坊主を四人抱えた母親じゃないの。結納もこれからだってのにやってられない。
「四バカ大将！　退きなさいよっ」

全員をにらみつけながらパンプスを脱いで、とりあえず自室への階段を葵は駆けあがった。
「葵ぃいい」
「あとでっ」
光の情けなさそうな声を切って捨てる。

「怒られてもうたぁ」
「あんなのまだまだ」
「本気になったら必殺だし」
「おめえら、酒だ酒ぇ」
あぁもう、いつから飲んでるのよ。

襖ふすま　で遮っても木造家屋の悲しさ、会話は筒抜けだ。酔った男たちは常より大声どら声ときている。どいつもこいつも。着替えながらも聞こえる騒ぎに葵は押入の柱に額を打ちつけたくなった。



言い出したのは鋼らしい。

「結納の話がちっとも見えねえ、ちゃんとやってんのかあの電球野郎」

鉄から光に連絡をとらせ、出先から直帰の予定だったのを家に呼びつけたとか。いつのまに携帯番号を教え合ったのやら。道理で光はスーツのままだ。上着を脱いでネクタイをゆるめた格好は居酒屋のサラリーマン。それにしたって。

台所にきた銀を葵がつかまえる。
「飲ませすぎじゃないの」
「んなことねえって。まだ二時間かそこらだろ。あいつの酒量は最初に来た日でわかってる。これっくらいで回るわけ」
「でも回ってるわよ」

どっとバカ笑いの高笑いが響いてきて、葵が銀をにらむ。
「……空きっ腹に入れすぎたかなぁ。俺もちょっと変だと思ったけど」
居間を振り返りながら、銀が首を傾げる。
「すげえご機嫌だから、ずっと」

確かにそうだ。
光はすこぶる機嫌がよく、鋼とああだこうだとやりあっているようで楽しんでいる。呂律も怪しいがおかまいなしだ。このところ見るたび調子が悪そうだったのに、酒のおかげといえ血色のいい顔でにこにこしている光は久しぶりの気がする。


「せやからなあ、おやっさん。難しいしきたりはおいといて、肝心なとこだけ押さえるんでええやろか」
「肝心なとこってのは」
「仲人はんが仰々しゅうやってきて、結納持ってきましたぁ、葵ちゃんと光くんが結婚しますぅて、ご近所に聞こえるよう披露するっちゅうとこ」
「それだそれ、わかってんじゃねえか、うんうん」

光のがうつったのか、鋼まで満面の笑みだ。
抱えている一升瓶は残り三分の一。

「うちまで来るんは遠いから省略してやな、おかんと初音と乙女を連れて来て、ここで結納をとり交わしらええかなぁて」
「おめえんちがそれで承知なら、うちは十分だ。うんうん、十分だ」

ちゃぶ台の上には葵が用意していた晩ご飯のおかずが酒の肴代わりに並んでいたのだろう、どの皿もほぼ空だ。なのに酒は減っていく。なんなのこのハイペース。

光は酒に強い。一升瓶抱えて育ったような日高家の父子と伍するほどに強い。それはわかっているが、いつもの飲み方と違いすぎる。

「その後なんやけど、またどっかで食事っちゅうのも面倒かと」
「そりゃこっちでやるから気にするな」
「ほんまに？」
「おう、まかしとけ」

「ほんならそれでおっけー」
「おっけー牧場だー」
「いち、にぃ、さん、だー！」

どこかで聞いたような掛け声とともに光がコップ酒を掲げる。鋼までコップを差し上げるのを見てあきれる。

「おー！」
「……バカばっかり」
「だー！」
「鉄までやめなさいって」
それでも言いきかせようとする葵を、銀が止めた。

「言うだけ無駄だって葵。やらしとけ」
「でも」
「明日は休みだろ。潰れたら泊めてやりゃいい」
「でも」
「飲みたい時もあらぁな、人にはさ」

今一つ納得できず抗あらが　っていた葵は、銀の言葉に口をつぐんだ。頭のいい弟は光の様子に何か感じたのだろう。いや、鉄も鋼もそうなのかもしれない。だから今日に限って逆らうことも揉めもせず、飲み続ける光の相手をしているのだろうか。

「俺らが面倒見るから葵は先に寝ていいぞ」
「そういうわけには」
「あいつはもう家族同然だ。心配するなって」

ぽん、と肩を叩いて居間へ戻っていく銀の背中。その向こうで鉄や鋼とともに、光は騒ぎながら飲み続けている。

今夜の彼は男同士に慰めを得ているようだった。父や弟たちとなじんでいる姿が嬉しくて、でも自分の役目がないのが悔しくて、そうまで酔おうとする光が心配で。

銀の言葉を素直に受けて自分の部屋へ戻ったものの、布団に潜っても聞こえてくる話し声も手伝って、葵はなかなか寝付けなかった。





ふっと葵が目覚めると、もう外は薄明るかった。時計を確かめたら五時。のどが渇いた。家の中は静まり返っている。

光がどうしたか気になった。あの調子ではとても帰れなかったはずだ。起きあがった葵はそっと部屋を出て階段を下りた。

思ったとおり光は居間に寝かされていた。ちゃぶ台が足元に寄せてある。布団にくるまった顔はお酒のせいかもしれないが安らかで、葵をホッとさせる。枕元に水差しとグラスまで置いてあった。鉄と銀にしては上出来だ。ほめてやらなきゃ。

水を飲もうと台所へ行きかけた葵だが、何か聞こえて振り返った。

「……ろ、っ、るなっ」

布団をかぶったままの光がうなされながら首を振っている。さっきまでスヤスヤ眠ってたのに。あまりにも苦しそうで葵は枕元へ取って返した。

「光、ねえ大丈夫？」

呼んでも返事はおろか目を覚ます気配もない。金縛りにでもあっているんだろうか。脂汗までにじんできたので、布団の上から体をゆさゆさと揺さぶった。

「ひかり」

ようやくうっすら目が開いた。焦点が定まらないのか黒目が上下左右あちこちする。まぶたも閉じたりあいたり、めまぐるしい。

「起きて、だいじょ、っっ？」

突然、葵の天地が逆転した。たったいままで光が寝ていた布団に両肩を押しつけられる。押しつけているのは光だ。でもその目が。

「ひ、かり？」
「やめろ」
「光ってば」
「やめろ」

おかしい。目がうつろだ。葵を見ているようで見ていない。
なにか、別の誰かを見て、怯えている？

「あたしよ、わかる？」
「わかったから」

彼の目がどんどん冷えていく。乾いて暗くなっていく。まるで仮面のように固り凍っていく表情。これは何。　誰？　そういえばさっきから関西弁じゃ、ない？　手が伸ばされる。

「わかった」

え、と思った。
そこにいるのは光だ。光しかいないのに。
首に食い込むこの手は、誰。
私の首を絞めてるのは。

どうして？

「っ、か、り」
「わかった」
「やめっ、、るしっ」

いかに葵でも馬乗りにされて体重をかけられたら体格差でいかんともしがたい。必死で足をバタつかせたら何かを蹴った。固い音がしたが、光は手をゆるめない。

このままじゃだめ。こんなの。
もし、万が一。
そんなことになったら、私は。
光は？

首に掛かった指に思い切り爪をたてた。わずかに細めた彼の目を穿つほどみつめて、必死で訴える。

「ひっ、かっ……」

あぁ、息が。
それでも呼ぶ。必死で呼ぶ。
ひかりひかり。
眼の奥が赤く赤く染まっていく気がする。
ひかり。ひか、

「……りーっ！」

霞がかった彼の目が突如、ぱっと開いたのがわかった。彼を覆っていた仮面が驚愕で割れて、葵の知っている光がのぞく。ずんずん見開かれる目から溢れる衝撃と、怖れ。

首に掛かってた指がゆるみ、はずれると同時に、のしかかっていた重みが腹からふわっと消えた。

「何してんだ、てめぇええっ！」

誰かの叫びも、続くドタバタと激しい音も遠い。どっとなだれ込んでくる空気をとりこもうとして、葵は思い切りせき込んだ。まぶたの裏で赤い色が点滅する。涙がにじむ。のどの痛みを和らげようと指先でなで、ぜいぜいと息を継ぐ。

「あおいっ、葵、大丈夫か」
おろおろした声で背中をなでているのは鉄だ。

ドカッと大きな音とともに、何かが壁にぶつかって響いた。どうにか身体を起こすとまだ滲む視界に、信じられない光景がとびこんできた。

光に銀が馬乗りになって殴っていた。何度も殴る。殴りつける、こぶし。本気だ。無抵抗の光の口から血が滲み流れている。その色。

やめてと、叫ぼうとしても声が出なかった。ひゅーひゅーと喉が鳴るだけ。葵の思いが聞こえたかのように、誰かが銀を止めた。背中から羽交い締めにして押さえたのは、父だった。

「落ち着け、銀！」
「はなせ、離せよ畜生！　殺す、こいつをぶっ殺してやる！」

力尽くで引きはがそうとする父に、銀はもがいて抵抗する。目が血走っている。あんな目は初めてかもしれない。うしろで鉄が叫ぶ。

「離せぇえええーーっ」
「銀兄にい　！」

止めなきゃ。

「…っねがっ、やめっ」

立ち上がろうとしたのは無意識で、だが足は思うように動かなかった。三歩も歩けず倒れ込み、息を吸い込んでまたせき込む。のどが痛くて痛くて。苦しくて。チカチカとまたたく血の色。

「あおい！」

呼んだのは鉄だったか、光だったのか。


わかるはずもなく葵は落ちていった。
赤い帳とばり　の中へ。