光はひとり、もがいていた。

苦しい。
動けない。
どうしてこんなに。

鬼がいる。
髪を振り乱して、目をつり上げた、鬼が。


「うっっわああっ」

がばっと跳ね起きたらベッドの上だった。あたりを必死で見回しながら、手はそこら中をまさぐる。頼りになるものもつかめないが、恐れるものもいない。

また、夢。


体中から力が抜けた。がっくりと肩が落ちて髪が垂れる。どっどっどっ。全身を叩いて回る鼓動が痛い。ぐっしょり濡れたＴシャツが冷えていく。

光はのろのろと顔をあげた。


窓の向こうは薄闇だ。やっと夜明けか。
このところ毎晩、眠りが浅くてすぐ目が覚める。
繰り返し見る、忘れたはずの。

ぎゅっと目を閉じ頭を振った。
眠らなければ。ウィークデー、朝になれば仕事が待っている。

少しでも眠ろうとして思い浮かべたのは、日高家との食事会だ。


あれからもう、三週間近くになる。
緊張したし不安もあったが、すんでみれば楽しかった。
楽しかったな。

昭和の頑固親父を体現してるみたいな鋼が、小さい女の子に甘甘なんて見なけりゃ信じなかった。あれ以来、夕花はすっかり「おじいちゃん」子になって、今度いつ会えるとか会いに行きたいとか一人で行くとか、桐子をさんざん困らせているらしい。

その桐子はキヌを、藤尾は鋼を、それぞれ気に入った様子だ。
「粋できっぷがよくて情の深いおばあさまよねえ」
繰り返す姉に、きっぷがええんはともかく怖いんやでぇ、とは言わずにおいた。

「それを言うならお父さんよ。仕事してるところを見に行きたいくらい」
実父の融とおる　とは真逆のタイプだが、そこに惹かれたのかもしれない。あまり父の思い出に触れない藤尾が、鋼には興味津々で「すずめさんにも会わせたいわ」とまで言っていた。ほんと珍しい。

乙女はすでに日高家のリズムに慣れているようだった。鋼相手でもいつもどおり、いつもより地を出しすぎ、遠慮のなさすぎ。意外なことにそんな末っ子を鉄も鋼も気に入ってくれているらしい。ありがたいような寂しいような、兄としては複雑だ。

比べて初音は緊張していた。これまで彼氏の話もあまり聞いたことがなかったのが、相手と自分、双方の家族にまとめて会う羽目になったのだからしょうがない。鋼は、初音の良さもちゃんと認めてくれたようだし。

振り返ってみると主役は自分と葵のはずが、鋼に全部してやられたような気がする。葵の尻に敷かれるのは文句も問題もないが、鋼に負けてばかりは情けない。

とはいえ。
ええ人や。誰も彼も。

いきなり大役を押しつけたのにぼやいても断らず、それどころか知らないしきたりを調べてあれこれ提案し、準備してくれる、彼と彼女も。

俺は恵まれとる。
せやな、葵。
葵がここにおったらええのに。
抱きしめてキスして離さんとおれたら。

やっと訪れた光の眠りは、携帯のアラームが鳴るまで妨げられることはなかった。





葵にもたらされたのもさわやかな朝とは言いがたかった。

いつもの目覚ましベルに耳をつんざかれた。あわてて止めたものの、起き上がってもぼんやりした頭は重く、鈍い頭痛が湧いてくるのを感じる。夢を見た覚えはないのに、目を閉じると黄色いライトが点滅して見える。
危険を叫ぶように。

「……何なの」

見慣れた自分の部屋に答えはなかった。



「２２時に新宿キンスリーホテルにて会合、本日は以上です」

案の定、途切れない頭痛を人差し指と中指で眉間に埋め込むようにしながら、葵は声音を平静に保った。首筋の凝りをほぐしたくなるのをこらえる。

秘書としての葵の仕事は、社長の陸見くがみ　にその日のスケジュールを報告することから始まる。涼しくなると動きやすくなるのが人の常。秋は一段とスケジュールが詰まり気味だ。その全てを涼しい顔でこなすのが陸見という男だが。

今日の予定を頭の中で組み立てたのだろう、応接セットのソファに座った陸見は、うんとうなずいた。

「わかった。今朝は少し余裕だね。そういえば」
何かあっただろうかと身構える葵に、陸見はあっさり爆弾を放る。

「源のことだが、あいつ、どうしちゃったんだい」」
ギクッとしてドキッとして、手帳をにぎりしめる。
「みな、え、どうって」

仕事のことなら何を投げられてもキャッチしてみせるつもりだが、突然、プライベートを放るのは反則だ。しどろもどろになる自分をひっぱたきたくなる。だが陸見はからかっていない。

「昨日、一昨日か、久しぶりに会ったんだ。てっきり幸せいっぱい夢いっぱいだろうと思ってたのに、ひどい顔だった」
真顔で葵に尋ねてくる。
「夏の忙しさも一段落して、営業が苦労する案件なんか聞いてないぞ」

体勢は立て直したものの、答える言葉がみつからない。葵の表情に陸見が退くわけもない。
「日高くん」
「……わからないんです」
答えられないのが悔しかった。


食事会の終わりに葵が感じた危惧は、次第に光を浸食している。だが彼は認めない。気のせいとしか言わない。それが葵の心にも食い込んでいた。

長いトンネルをくぐってようやく出会った人だ。結婚したいと、しようと決めた人だ。その人が何に苦しんでいるのかわからない。わからないことが情けなくて、泣きたくなる。


「家族同士の食事会はうまくいったんじゃなかったのか」
「もちろんです。父も弟たちも喜んでくれてますし、結納について彼のお母さんや妹さんたちもしょっちゅう連絡下さって」
「なのに源ときたら、睡眠不足で死にそうに見える」

誰にもわかるほど不調なのに。

「何度聞いても駄目で、大したことないって言うだけで」
コーラル・レッドの唇を噛みしめる。手帳を持った左手の手首を右手でつかむ。自分の無力さを握り潰してしまいたい。

「君も眠れないのか」
はっとして顔をあげると、陸見の厳しい表情に気遣いが見えて、涙腺を引き締めなければならなくなる。

「相手の心に踏み込むのは難しい。それが大事な人でも、大事だからこそためらう。一心同体なんてのは言葉としては美しいが、人は結局ひとりとひとり、心も体も別々だ。だから苦しいし、だからこそ恋愛は素晴らしいんだが」

こみあげる涙を必死で押さえ込む。ここは仕事場で相手は上司なのよ、しっかりしなさいと叱咤するけれど。

「それでも踏み込まねばならない時もある。これから彼と長い人生を歩くならなおさら。勇気を出すんだ。家族も友人も、それから僕もいる」

立ち上がった陸見は葵のそばまでくると、勝手にこぼれ落ちた涙を指で拭った。赤く充血した目は見ないで欲しいのに。

「恐れないで、わかるね」

有り難かった。

陸見はわかってくれる。葵がどれだけ恐れているか。ようやく手にしようとしている幸せが崩れるのを、なにともわからぬものに奪われることを。話してもらえないことで、押入のお化けは膨らむだけ膨らんで、葵を脅かし追い詰めている。

それじゃいけない。
恐れるだけでは。


「信じてるんだろう、彼を」
「は、い」
「君なら大丈夫だ」
「社長」

とうとう崩れた背中をさすりながら、陸見は黙って泣かせてくれた。会社はもちろん家でも、光の前でも泣くわけにいかなかった葵は、募るばかりだった不安をここで流そうとした。その先の勇気を求めて。


結納までわずか。幸せなのにどうして。
葵の問いに、答えを持っているのは光だけだ。
だからこそ。


まぶたの奥で、黄色いライトが叫び続けている。