初音の言葉に皆が黙り込んだ。

乙女が声を押し殺しながら鼻をすする。なだめるように背中をさする鉄も、銀も、葵とて何も言いようがない。なんとかしゃべろうとする光の声もかすれていた。

「……うわ言でも、俺がそないなこと言うたやなんて。ひとっつも聞いとらんで」
「言えるわけないでしょ。光だって意識が戻ったあと、それまでのことはひとつも聞かなかったくせに」

間髪入れない初音の返しに光が苦笑する。こういうところは彼女らしいと思ったのだろう。

「泣いて暴れて倒れた後で、どないせえっちゅうねん。夢やなかったんは重々承知でも、できれば忘れたいっちゅうか触れとうないわ」
「それどころか。熱が引いたと思ったら開口一番、高校卒業したら家を離れたいって言い出したのは誰よ」
「そうだったの？」
「……仕方ないやろ」

葵の視線に、光が遠くを見るような目をする。
思い出しているのか。

「ほんまに憎む前に、憎んでしまう前に、距離を置きたかったんや」


憎んでしまう前に。

それでも憎んでなかった。
憎みたくなかった。

そんな光の思いが葵の、皆の、胸を突いた。


「目標も欲しかったしな。空っぽになってしもうたから、あんときは」

情けなさそうに眉を下げて初音を振り返る。

「そない驚いてなかったやん、みんな。あっさり受け入れられて、びっくりしたで」
「あれだけのことがあって、光はどうなっちゃうんだろうって心配してたんだもの。こうしたいって言ってくれてホッとしたくらいよ」

初音の答えが光には意外そうだ。

「家を離れるて言うてもか」
「離れるしかないってわかったから」
「全部放り出したんやで」
「違う！」

乙女が叫んだ。

「光は待っててくれたのよ。私や初音が成長するのを、光がいなくなっても家族がなんとかやれるまで」


ああ、と葵は思った。

自分が必死で守った弟たちがいつのまにか成長したように、光の妹たちもちゃんと成長していたのだろう。兄の苦悩を理解し、決断を遮らなかったほどに。


「あれがきっかけで小町さんも戻ってきたし」

乙女の言葉にその場の視線が集まると、小町が居心地悪そうにする。
光がほほえんだ。

「せやな。俺が退院したら、もう夜中にうろついたりせんようなっとった」
「心療内科に行ったの」
「……そう、なんか？」

それも初めて聞いたらしく、光がひどく驚いている。

「あなたを送り出すために。あなたが安心して家を出られるように、私が融さんの死をちゃんと受け入れなきゃって。遅すぎたけど、これでも頑張ったのよ」

母を見つめた光は物問いたげに幾度か口を開きかけたが、結局また閉じて目を伏せた。ぽつりとこぼす。

「知らんかった」
「卒業までの半年、極力私を避けてたものね。無理もないけど」
「会話はしたやろ。ご飯の時とか」
「ええ。それだけでもすごいことだったってわかってる」

小町がほろ苦く言うと、乙女が懸命にフォローする。

「あたしたちとだって話すのは最低限だったわよ。あの頃の光は明けても暮れても勉強してたし」
「急に志望校変えてもうて。結構無理したんや、国公立志望としては」
「しっかり受かったじゃないの」
「運も良かった」

小町は葵へ説明するように言葉を足した。

「関西の大学に入学して光は家を離れたの。去年の暮れに戻ってくるまで、ずっと」
「ずっと？」

葵が繰り返すと光が言い訳する。

「ちゃんと連絡はしとったやん。長い休みには帰省もしたし。桐姉の結婚式とか」
「藤姉と雀ちゃんの式には急すぎて出られなかったのよね」

乙女が赤い目でやっと笑うと光は苦笑いで答えた。

「あれは反則や。いきなりすぎるわ」
「光、怒ってたもの。ねぇ、初姉」
「電話からドラゴンみたいに炎を吹き出してたって、藤姉が笑ってたわ」

初音も乙女も、小町まで微笑み、光は思い出にふける。
家族って。
重い話の直後でも軽口を叩きあう母子に、葵はしみじみと思った。


家族っておかしな集まりだ。

自分では選べない上に、必ずしも相性がいいとは限らない小さな集団が、それなりの年月を一緒に過ごすことで、目には見えない何かを築きあう。互いを愛して時にののしり、憎んで、目を背けたくなるような出来事があってさえ、築いたものは在り続けるのだろうか。起きた事は消えないのに。

「葵」

光の声に我に返った。

「俺はこんな男や。弱虫で臆病で、いまだに……昔をひきずっとる」
「ひかり」
「俺が、怖いか？　嫌いになった？」

葵は首を振る。きっぱりと。
ほっと小さく光が息をつく。

「ほな、近くで俺と所帯を持ってくれるか」
「やっぱりここじゃなくて？」
「距離があるほうがうまいこといくんや」

小町が冷静に、息子を後押しする。

「光が望むようにしてあげてくれる？　大事なのは住む場所じゃない、あなたたちが幸せになることだわ。あなたと、光が」


それでいいはずなのに葵は何か引っかかった。過去は洗い流せない。わかっているのにどうして。もどかしさを抱えて光を見る。

「ほんとにいいの？　別居で？」

あなたは、そうしたいの？


ためらって迷って、それでも彼の答えは同じ。

「葵と二人で暮らしたい」


だから決断した。
彼を愛して守るのは、これから、自分の役目だ。


「じゃあ、日取りも相談しなきゃね」

心配そうだった光の顔が、晴れるように明るくなった。葵の心も晴れる気がする。

「ほんま？」
「ほんまほんま」
「ほんまにほんまにほんま？」
「ほんまにほんまに……」

「ほんほんほんほんて図書館かここは」

銀があきれた声で茶々を入れた。
忘れていた。
ふたりきりじゃなかった。

「いい加減にしろよ、バカップル」

思わず真っ赤になる葵に、鉄まで腕組みして偉そうに口を出す。

「恋はモーモーってほんとだな」
「……はあ？　鉄ちゃん、何それ」
「なんだ乙女知らないのか。恋ってのは牛に乗っかるみたいなもので、らしくなく振り回されるっていうことわざだろ」

その場の全員が突っ込んだだろう。そんなことわざ、広辞苑だろうと大辞林だろうと見つかるまい。初音が吹き出し、銀が天井を仰ぐ前で、乙女が脱力してしゃがみこむ。

「……誰が言ったのよ、モーモーって」
「へ？　えっと？」
「盲目よ盲目！　牛が恋してどうなるっていうのよ」
「もうまく？　恋はもうまく？」
「ああもう、いっそ馬に蹴られちゃえば！」
「なんで馬だよ」
「鹿だって蹴るわよ、バカは」
「なんだよバカはこいつだろ。俺らが電話しなきゃどうなってたか」

鉄に指さされて、光が眼鏡をキラリと光らせた。
葵はともかく、漫才な弟たち相手に遠慮する気はなさそうだ。

「もうじき兄貴になるんやで、鉄。　こいつはないやろ」
「げぇ、兄貴だ？　ひとりで間に合ってるって。また増えるのかよ」
「じょーだんじゃねえっ。俺は兄貴なんて呼ばねえぞ、ぜーーったい」

鉄の悲鳴と銀の拒絶、勃発しかけた義兄弟の卵の喧嘩に、勇敢にも割り込んだのは小町だった。銀を間近でのぞきこむ。

「あなたも葵さんの弟さん？　ひょっとして初音とつきあってるの？」
「え、あ、ぐっ」

突然の場面転換にあわてふためく銀を見て、鉄がふんと鼻を鳴らす。

「状況が見えてねえのは銀じゃんか。恋はも、も、もーもく？」
「鉄っちゃんドンピシャ！　かしこーい！」
「へへん」
「るせえっ、黙れ！」
「黙るの？」

「いやっ、そのっ、お母さんのことじゃなくて」
「お母さん、じゃなくて小町さんよ。はい復唱」
「こまちぃ、さん？」

繰り広げられる即席漫才に初音が泣き笑い状態だ。やれやれ。いつものクールさを吹っ飛ばされている銀に、助け船を出すべきだろうか。


苦笑していた葵がふと、真顔になった。銀を敏腕刑事みたいにビシビシ尋問している小町を、みつめる光の顔に浮かんでいた、何か。葵に気づくと跡形もなく消えてしまった、それは。

何。


好きな人に寄り添い、互いの家族に祝福されながらも、砂地に家を築くような心許なさが何故か、葵の心につきまとって離れなかった。