葵が焦った声で沈黙を破った。

「鉄？　銀まで、人様の家で何してるのよ」

積み重なった四人はまるでマンガのヒトコマみたいだ。初音と乙女をつぶしそうになりながら、銀と鉄があわてて身を起こしきまり悪そうな顔をする。


「立ち聞きか。あんまり誉められんな」

光のいつもより冷たい調子も今はたしなめられない。一体いつから聞いてたんだろう。銀がぶつぶつ言う。


「しょうがないだろ。今朝、煮えきらない奴の尻を叩いたから。てっきりうちに来てると思ったんだ」
「時間を作ってやろうと二人を送って来たのに。まさかこっちにいるなんてさ」

鉄も文句たらたらだが、葵には今一つ意味がわからなかった。煮えきらない奴って光のことだろうか？　尻を叩いた？

それはともかく、二人が上から退いてもつぶされたみたいに床に突っ伏して動かない初音と乙女が気になる。


「ねえ、怪我でもしたんじゃないの」
「まさか。ちゃんと手をついたぞ」
「俺だって。乙女、どした」
「初音？」

はつね、だって。

鉄はともかく銀までいつのまにか呼び捨てにしているのを聞いて、葵はひやっとする。鉄は乙女と一緒に小町に会いに行ったと聞いた。銀と初音のことは聞いてるんだろうか。小町の顔を見る勇気がない。

さっきまで光のひどく辛い過去を聞いていたのに、終わってないのに、急に弟妹の恋愛沙汰へとカードをめくられても、頭がついていかないと思う。おまけに。

初音と乙女は泣いているし。

泣いていた。突っ伏して顔を見せまいとしながら、どちらの背中も小刻みに揺れている。乙女は以前も泣いたのを見たことがあるけれど。


「初音、どうした。怪我したのか」
「おい乙女までなんだよ、どこが痛いんだ」

仏頂面を豹変させてそれぞれの彼女におろおろしている弟たちは、情けなくて可愛い。葵の胸に温かくてほろ苦いものが湧いて溶ける。銀が女の子相手に狼狽うろた　えてるのを見るなんて。


光が妹たちのそばに膝をついた。

「初音。乙女も、どないした」
「……っ、ひっ、ひっ、ひっかりぃ〜」

しゃくりあげた乙女が光を見上げる。目が真っ赤だ。初音はまだ動こうとしないが、鼻をすする音がひっきりなしだ。


「聞い、て、ごめん、ね、しんぱ、いで」
「怒っとらん。自己嫌悪なだけやて」
「それ、に、おも、いだし、てぇ」
「何を」
「あの、とき、の、ひかり」
「あの時って、ここでか？」

乙女がぶんぶんと首を振る。それが引き金みたいに初音のすすり泣きが号泣に変わった。絞り出すような声で泣く。光が驚いた顔をするから、滅多にないことなのだろう。

銀がなんとか起こそうとするが、首を振るだけでとりつく島もない。いつもと違う、くぐもって上擦った声で初音が言う。


「あたし、あたしはいつからかずっと、おかしいと思ってた。真夜中に小町さんが歩き回るのも、光の部屋に決まって行くのも知ってた。でも、怖かった。怖くて、藤姉や桐姉には言えなかったの。黙っていることで結局、あたしは光を苦しめ続けたんだわ」

「そないなこと」
「そうじゃないわ、初音」

淡々とすら聞こえる調子で、初音を小町が遮った。

「悪いのは私よ」

肩に手をかけられてぴくりと初音が反応した。
泣きはらした目で母を振り返る。

「こま、ち、さ」

新たな涙をあふれさせながら、座り込んだ小町の腰にしがみついてまた泣きじゃくる初音。娘の髪をなでながら小町が光を見た。


「あなたは覚えてないわよね。覚えていてほしいわけじゃないけど」
「何を」
「入院してからずっと、熱と過労であなたは錯乱状態だったの。妄想と心身の衰弱で一時は命も危ぶんだわ」

ほんとうに初めて聞いたらしく、眼鏡の奥の目がいっぱいに見開く。

「その間中、悪夢にうなされながらあなたは漏らし続けた。五年分の苦しみと悲しみを」
「……俺、何言うたんや」

光のつぶやきに、葵も銀も鉄も答えようがない。鉄の腕の中から乙女が、泣きはらした目で兄に答えた。


「聞いてるだけで苦しかった。桐姉と藤姉を心配させまいとして毎日家事をやって、初姉と私の面倒を見る大変さとか。なのに夜、眠れないつらさとか。夜中、小町さんがさまよって戸を叩かれる怖さとか。好きな人ができてやっと安らぎを見つけたと思ったら、それも嘘っぱちだったとか、それから」

乙女のためらいを小町が潔くつなぐ。

「私がどんな風に迷い、狂い、いわれのないことであなたを責め立て、苦しめていたのかを、叫びながらわめきながら泣きながら、あなたは訴え続けたの」

光が眉をひそめ、顔を歪ませた。

「やっと私は現実を見た。見ざるを得なかった。情けないわね」

淡々と話していた小町がかすかに顔をひきつらせて葵を見る。

「ひどい話だと思うでしょうけど。あの夜、光が自分を刺そうとするまで。その後、病院でもうろうとしながら全てを吐露するまで、私の心は止まっていたの。融さんが逝ったあの日からずっと」

だからって、と葵は心で反論する。
だからって子供たちを忘れてしまうんだろうか。だからって我が子を容赦なく追いつめるんだろうか。

その思いを見透かしたかのように、小町の微笑みは哀しげだ。

「人は時に限りなく残酷になるわ。限りなく優しくもなるように。私は失った日々を、失った人を追いかけ続けていた。夢うつつの中で、人じゃなくなっていたの」
「人じゃないって？」
「鬼よ」

葵の心に下町の昔語りがよみがえる。暗がりに潜む怪かしは子どもへの手っとり早い戒めだった。その中に鬼もいた。角を生やし目をつり上げ髪を振り乱した、鬼。目の前の小町とは似ても似つかない。

「葵さんは打ちのめされたことがある？」

問いかけた小町だが答えを求めず、一気に言葉を吐き出した。

「融さんを失って私はうちのめされた。けれど死ぬこともできなかった。かろうじて生きるために怒りをエネルギーにしたの。光を犠牲にして、運命の責任まで押しつけて」

そこでようやく光を見た。

「言い訳ね。全部言い訳。つまりは私が弱かったから。現実に向き合えなかったから。逃げていたから。それを徹底的に思い知らされたわ。あなたの枕元であなたの声であなたの言葉で」

小町は目を落とす。初音はまだしがみついている。

「私の罪をみんなが聞いてたわ。みんな驚いて泣いて。なのに誰も私を責めなかった」
「……どうして責められる？」

小町の膝から身を起こした初音が、かすれた声でつぶやいて、葵を振り返った。


「小さかった乙女はともかく、あたしも桐姉も藤姉も。どこかでわかってた、感じてたのよ。家の中にいびつな闇が、秘密が潜んでるって。なのに知らんぷりしてた。怖い物を見ないふりしていればいつかなくなる、そんな風に期待したんだわ」

初音は兄を見上げる。

「なら同罪でしょ。あたしたちは小町さんを責められない。責める権利があるとしたら光だけ。光の叫びを聞きながら思ったの。あたしたちはみんな、光を犠牲にしてなんとか生き延びようとしてたんだって」

唇を震わせながら初音は言い切った。


「みんなが、光に、断罪されたのよ」