押し合うように飛び込んできた乙女、初音に藤尾。
今夜に限って桐子まで居る。フライトからいつ戻ってきたのか。

てんでに叫ぶ四人姉妹の声が甲高い。

「ひかり？」
「どうしたの大声あげて、、、小町さん！」
「血？　怪我したの？」
「どうして。誰が……？」

血の流れる腕を押さえ、茫然としている小町に駆け寄った四人の目が、理由を求めるように光を見た。光の握っているナイフと、新たについた小町の血を四人が凝視する。

「ひか、り？」

乙女が呼んだ。
ずっと光が守ってきた末っ子。泣かせたくなくて、笑っていて欲しくて、そのために頑張ってきた。そのためなら頑張れた。なのに。

彼女のおろおろとした、それでいて気遣わしそうな顔が、ナイフよりも鋭く光を刺した。


「っっっっ、うぁああああーっ！」

やり場のない激情があふれた。ナイフを振り回し、そこら中の物を投げ、壊しまくった。誰に対しての怒りかもうわからない。若菜なのか小町なのか、運命に向かってなのか。

それでも死ぬことはできなかった。母の前で死ぬことはできても、妹や姉たちの前で死ぬわけにはいかない。今まで耐えたのは、耐えてこられたのは、彼女たちがいたからだ。

だが、もう耐えられない。


「くそっ、くそっ、ばっかやろおおーーっ」

グラスが砕け、皿が割れ、鍋がフライパンがまな板が転がり、箸やフォークやスプーンが散らばった。調味料が、香辛料が、小さな瓶ごところころと転がる。あまりの勢いに誰もがただ、見ているだけだ。


「ちっくしょおおおおーーーっ」

最後に、小町が集めていた高価なティーカップがいくつか、受け皿ともども粉みじんになった。ようやくしんと静まりかえった部屋。ナイフを握ったままの光の息づかいだけがハァハァと空気を揺らす。

ゆっくり顔を上げた光をみんなが見ていた。
乙女、初音、藤尾、桐子。

家族のために。
今の俺に、できることは。

素足の裏に、割れた破片が刺さるのも気づかず、よろめきながら小町の前に立つ。


「父さんは死んだ」
「……光？」

桐子の声は聞いてない。
母を、母だけを見る。
訴える。


「辛いのはわかってる。俺のせいならそれでもいい。だからって俺を責めても、たとえ殺しても現実は変わらない。俺にも、誰にも、父さんを生き返らせることはできない」

血は止まったのだろうか。
母は腕の傷も忘れて、光を見ている。

「いつか、小町さんは立ち直ってくれると思った。それまでがんばるつもりだった。頑張ってきたんだ」

母は何を思っているのだろう。

「父さんはみんなの父さんだったんだ。桐ねえも藤ねえも、初音も乙女も、どれだけ悲しんだか、悲しんでるか。小町さんには家族がいるってこと、思い出してくれ。一緒に悲しむ家族が」

それが精一杯。
今にも力尽きてしまいそうな気がする。

「ひか、り」
「俺はもう、頑張れない」

自分は今、どんな顔をしてるだろう。

乙女の不安。初音の心配。藤尾の驚愕。桐子の狼狽。
顔を見なくても伝わってくるそれら。
みんなに笑っていて欲しかったのに。

だめだ、もう守れない。
守れるはずない。
愛した女ひと　にすら玩具おもちゃ　のように捨てられた、こんなちっぽけで情けない男に、家族が守れるわけがない。


「疲れた。疲れちゃったよ。……父さん」

うなだれた光が子どものように呼んだのは、父だった。

思い出そうとすると甦るのは倒れた姿ばかりだったから、思い出すまいとしてきたのに。無意識につぶやいた光の心にどっと、父の記憶が湧いて寄せた。


笑う父。
からかう父。
うなずく父。

いつだって家族の真ん中に居た。
誰かが呼べば必ず答えてくれた。

女ばかりの家で肩身の狭いフリもせず、分け隔てなく家族を愛し、まとめ、柱として支えていた父だった。みんながそれを知っていたし、みんなが彼を愛していた。


『　ひかり　』

声が聞こえた。

のろのろと振り返るとソファの前、ライトのように円く照らされた中に、父がいた。ナイフを取り落としてふらふらと歩み寄る。父は微笑んでいた。


『光、ありがとう』

なんで今、そんなこと言うんだよ。


あの頃と同じ、優しくて温かな父の笑顔が今は、辛い。
光の目から涙があふれた。
頬を濡らして伝い落ちる。とめどなく。


「父さん。俺、もう、だめだ」

連れてってくれよ。

ふっと、全身から力が抜けた光は、ソファの前に倒れ込んだ。
父のように。


「ひかりっ？」
「光！」
「桐姉どうしよう、すごい熱」
「初音、救急車！」
「いやあーっ、ひかりぃいい」


飛び交う悲鳴も揺さぶられる身体も、全てが遠ざかっていく。
父の笑顔も。

置いてかないで。
連れてってくれよ。
それだけを繰り返し願っていた気がする。





「あの夜、覚えてるんはそれが最後や」

そう言って口をつぐんだ光が葵には痛々しく見えた。

窓の外は真っ暗だ。キッチンの明かりで三人が座っているダイニングテーブルは明るかったが、その分、周りの闇が濃い。光の手が葵の前を横切るように指さす。


「あんな風やった」

季節が違うせいだろう、ソファから少し離れた位置に円く落ちた仄かな明かり。ただの月明かりなのに幻想的で厳おごそ　かに見えた。

「後にも先にも、親父を見たんはあれきりや」

光の声には人恋しさが滲む。
自分では気づいていないのかもしれない。


「気づいたら病院やった。見慣れん天井をぼんやりにらんで、全部夢やったらええのになぁて思うた。そんなわけないんはわかっとったけど」
「入院してたの？」

おそるおそる葵が尋ねると、光は困ったような苦笑いを浮かべた。


「せや。一ヶ月近く」
「いっか……？」

大きくなった声をあわてて塞いだ葵に、光の苦笑いが少し和らぐ。

「はじめの一週間は覚えとらん。何があったんか今も知らん」


葵が、光も、小町を見た。

ろくに口もつけないティーカップは三つの水たまり、紅茶だまりと化している。手元のそれを持ち上げ、冷めきった紅茶を見下ろしてなお、小町は黙っている。

「なあ、あれから何があったんや」

唇をかんだ小町がためらい、話し出そうとするかのように息を吸った、そこで。


「……ちょ、銀さん、押さないで」
「押してないだろ」
「鉄っちゃん、重いぃ」
「うわ、うわわーっ」

ドア越しになだれこんできた四人がリビングの床に積み重なった。
初音の後ろに銀、そのとなりに乙女と鉄。

まるで過去の再現のようで、葵も光もそして小町も、唖然とみつめるだけだった。