真夜中の道は暗く、迷路のようだった。

若菜のマンションから家まで、どこをどう辿ったのか、光は覚えていない。左手にナイフを持ったまま。頬には若菜になすりつけられた血が固まって、皮膚をつっぱらせていた。

その顔を誰かに見咎められたら警察沙汰になっただろうが、そんなことは光の意識になかった。それどころではなかった。心で血が流れ続けていたのだから。終わってしまった恋に胸を突き刺されて。

何がいけなかったのか。
どうして。

キリキリとねじ込まれるような痛みをさらに増幅するのは、彼女のためなら全てを捨ててもいいとまで思い詰めた光の気持ちが、若菜にはこれっぽっちも伝わっていなかったという事実だ。


いつのまにか辿り着いた家を呆然と見上げた。帰りたくないのに帰り着いたしまった。帰ってどうなるというのか。光の心がまた血を流す。

わからない。
わからない。

失った。いや、彼女が自分のものだったことなど、一度たりともなかったんだ。なら今の自分に何がある？　何もない。残されたのは左右に見える暗い塞がれた道のような明日だけだ。

疲労がコンクリートブロックのように、光の肩に積みあがりのしかかる。今にも潰されてしまうかもしれない。

家に入ろうか入るまいか、躊躇する。だからってどこへ行く？　どこへ行ける？　逃げ場所はない。どこにもない。

うなだれた光は玄関の鍵を開けるとすべりこんだ。
家という名の檻に。



母の気配はしなかった。今夜はもうさまよった後かもしれないが、用心のつもりで足音を忍ばせる。リビングは暗く静まり返っていた。

月が出ていたのにどうして気づかなかったんだろう。開いたカーテンから月明かりが差し込んでソファを、その足下を淡く照らしている。記憶が甦らせる丸い影を見ないふりで行き過ぎる。

キッチンの流しで蛇口をひねった。ザーッとステンレスを叩く音がいけなかったのか。グラスに水を汲んで飲み干したとたんだった。すごい勢いでドアが開いて嵐が駆け込んできた。

「融さんっ」

光をおびえさせたのは母の声音だった。あまりにも聞き覚えのある、狂った響き。射し込んでくる月を浴びて立つ小町の姿が歪んで見える。キシッと何かが軋む。


闇の中をさまよっていたのだろう。小町は真っ暗な室内にも戸惑わなかった。隠れろと思った時には矢のような視線にとらえられていた。飢えて狩りをする夜行性の猛獣に似た目がギラギラと輝く。

「どこに行ってたの、ずっと探してたのよ」

飛びつかんばかりの小町を必死で押しとどめようとする。

「小町さん、俺だ」
「どうして部屋にいないの、私の隣にいてくれなきゃ」
「俺だよ、光だ」
「こんな暗いところで何してるの」

ぱちっと小町が照明をつけた。リビングとキッチンが隅々まで、残酷なほど明るくなる。目もくらむ眩しさと小町の視線に必死で耐える。

父じゃない。わかるはずだ。わからないわけない。
けれど、彼女は認めない。

「みんな意地悪言うのよ、融さんはとうに死んだんだ、もういないって、ひどいことばかり、嘘ばっかり」

小町の口から鉄砲水のように吹き出す言葉を、まともに浴びるのは何日、何週間ぶりか。その不条理が理不尽が、光を苛む。

夜は可能な限りバイトに出ていたし、運悪く夜、バイト帰りにつかまった時は逆らわずなだめ、自室に戻るよう説得した。自分が眠るときは部屋に鍵をかけた。

それでも扉越しの母の足音は眠っていてもわかったし、遠慮会釈なしに扉を叩かれれば否応なく目が覚めた。もう何年も家で熟睡できたことはない。仕方ないと諦めて。でも。

「聞いてるの融さん」
「違う」

光の中で押し殺してきたものが、漏れて暴れだそうとしている。
ちろちろと心の端をなめている。

「俺は光だ、父さんじゃない」
「……何？」
「ほんとはわかってるんだろ、小町さん」

光の声に何か聞き取ったのだろうか、言葉の放水が途切れた。彼女の表情が、歓喜から失望へ、見慣れた怒りへと変わっていく。

その先に待つものはわかりきっている。
キシキシと軋み音が大きくなり、野火が広がる。


「……なら、融さんはどこ。どうして光なの。融さんはどこよ」
「父さんはいない」
「嘘よ」
「いないんだ」
「嘘よ嘘よ嘘よ！」

ダンダンダンと小町が足踏みする。
大きな音が床に響きわたる。

「そんなはずないわ。融さんは私を置いていなくなるなんて、そんなことあるもんですか。そんなこと許せない。許さない」

そこでくわっと小町の目つきが変わった。
現実と妄想が彼女の中で錯綜している。

「どうして融さんがいなくなったの。あの時、あなたがすぐ救急車を呼んでいたら」

鋭い舌鋒の行き着く先を光は知っていた。何度も何度も繰り返し、幾度も幾度も針のように光を突き刺してきた言葉。

「あなたのせいよ」

深く、癒えることのない傷口を、再び。

「あなたのせいよ」

傷口はかさぶたで覆う間もなくはがされはがされ、化膿し、ぐずぐずと膿が流れ、心の奥底でふつふつと怒りがたぎり。

「あなたが融さんを！」

一歩一歩迫ってくる小町に向かって、光はついに絶叫した。


「やめろおおおおーーーっ！」

追いつめられた獣の咆哮ほうこう　。

父が死んだあと何を言われてもどれだけ責められても、母に逆らうことのなかった光の、限界だった。驚き固まっている小町に対して、光はもう止まらなかった。止まれなかった。


「父さんはいない！」

小町の顔がひきつる。
恐れたのは言葉でなく、光の表情だろうか。

「死んだんだ！　死んだんだ！」

光が踏み出す。
小町が下がる。

「俺のせいか？　そうかもしれない。俺が殺した？　そうかもしれない。それで？　それで一体どうしろって言うんだ！」

さらに一歩、光が踏み出し、小町がたじろぐ。

「父さんは生き返らない。何をしたって生き返らない。俺にどうしろって言うんだ。死ねばいいのか？　俺が死ねば小町さんは満足するのか？　そうだよな。ずっとそう思ってたんだよな」

眼を見開いた小町が頭を振る仕草は、肯定か否定か。

「死んで償えば満足するんだな！？　なら、死んでやるよっ」

手に張り付いて握りしめたままだったナイフを高くかざす。照明に鈍く輝く刃。ふちにこびりついた血が生々しかった。ナイフに魅入られた。怖くなかった。

若菜の血だ。
若菜の血のついたナイフなら自分を刺すのも簡単な気がする。
胸だ。左を。

たったひとつの望みが全て潰えた今、死こそ自分の望み、希望にすら思える。生きることがただ辛く、きつく、難しく思えるから。

死んでしまえば。


「ひ、かり？」
誰かが呼ぶ。
「ひかり、だめ」
聞くものか。切っ先をみつめ振りかぶって。

「だめえええっ」

手首をつかまれた。
誰だ、やめろ、邪魔するな。闇雲にもみ合った。

「放せ」
「だめ、ひかり」
「はなせーっ」

無我夢中で振り回したナイフがに、空でない手応えがあった。

「……つっっ」

聞こえた声で我に返った。小町の顔が歪んでいる。彼女の腕、肘から手首にかけて一直線の赤いライン。にじんで流れる血。

切った？
俺が？

若菜の時よりも衝撃は大きかった。
光はよろめき、二歩三歩後ずさる。
どうしたらいい。
誰か。


そこへ、どっとなだれ込んできたのは姉と妹たちだった。