ダイニングテーブルで、小町の用意したお茶を三人が口にする頃。

リビングの窓からのぞく空は焼け落ちようとしていた。
見つめる葵の舌も、熱いストレートティーに焼ける。

日頃飲みなれているのは緑茶の方だが、お茶はお茶だ。通じるものがあるのだろう。少しだけ落ち着かせてくれる。葵は視線を窓から、この家では一番なじみのあるリビングへと移した。


高い天井はどの部屋にも通じる特徴だ。リビングとキッチンダイニングの境は、二部屋の天井近くにあるアーチ型の仕切りだけ。開放的な作りは人を迎えるにはうってつけ、つまりは小町の性格そのものに思える。

明るくて、あっけらかんとして魅力的。

ああ、と気づいた。
光の姉妹全員と親しくなったわけではないが、容姿はともかく、性格は光が一番小町に似ているのではないか。

似たもの親子。
なのに。


以前、光が少しだけ話してくれたのを思い出した。彼の父親の死後、小町は体調を崩し精神的にもおかしくなった時期があると。

『おかんは閉じてしもた』

小町がどんな風だったのか。
光のかたくなさの原因もそこにあるのかもしれない。


「親父はあそこで、死んどったんや」

自分の考えにふけっていた葵は、光の声に引き戻された。彼が指さしたのは、リビングのソファあたりだ。

まさか、あそこで？


「まだ日も暮れとらんかった」

光の顔は夕焼けとは対照的な、少し青ざめた色合いだ。ちらと目を走らせると小町もそっくりの顔色になっている。

「ソファの下に転がとった。揺すっても揺すっても起きんで。ひっくり返した親父の顔見て、初めて気づいた。もうここにおらん、逝ってもうたて」

光の声が低く沈んだ。

「信じられんでぼおっと座り込んどった。なんですぐ１１９にかけんかったんやろ。あほやったなぁ」
「光」

小町の声が悲しげだ。

「救急車呼んで、心臓マッサージしとったら、もしかしたら」
「間に合わなかったわ。あなたが帰った時には融さんは亡くなってた。警察でもそう言われたし」

初めて小町を振り向いて光が言った。

「そやけど、そうしとったら小町さんもまだ、納得できたかもしれんやろ」

何を、どう、納得するというのか。
光の言葉に小町はそれでもいい募った。

「あなたのせいじゃない」
「せやけど」
「私だってわかってたの。でも」
「せやろか」

「母は」

繰り返そうとする光を、葵は遮った。遮らずにいられなかった。
唐突な単語に、ふたりが振り返る。

「私の、亡くなった母は、元々身体の弱い人でした」


母親について、光にはあまり話したことがなかったと思いながら、葵は言葉を探した。

「弱いといっても結婚するまではせいぜい、風邪を引きやすいとか、引いたら高熱になるとか、その程度だったらしいんですが。子どもを産んでからそれは顕著になったようで」

だからといって弱々しい印象はない。父を立て控えるおとなしさの裏には気丈さがあり、体力を気力でカバーする人だった。


「銀を産んだあと、もう子どもは無理だとお医者様に言われたようです。でも、鉄を身ごもると絶対産むと言い張って」

滅多に父に口答えなどしなかった母が、父と言い合うのを葵は聞いた。凛とした静かな、だが決して退かない母の声。

『私は産みます。男の子よ。あなたの息子をあきらめるものですか』


鉄にはまだ、話したことはない。いつか必ず、自分を責めることなく母の決断を受け入れられるようになったらと、そう思ってきた。

そろそろいいのかもしれない。乙女の顔がよぎる。
きっと、遠からず。

「幸い、出産で命は落としませんでしたが、すっかり弱くなって寝込むことが増えて。なんとか五年頑張ってくれました。鉄が物心つくまで」

それでも母の死は家族にすればとてつもない悲しみだったけれど。


「病気や突然の不幸は、誰のせいでもない。ましてや子どものせいであるはずがない。そうですよね？」

葵は光にでなく、小町に問うた。小町にそうだと言ってほしかったから。
小町は期待を裏切らなかった。

「そのとおりよ、葵さん」

葵に応え、光を見て、また葵を見る。悲しげでつらそうで、だが断固とした口調だった。

「あなたのお母様は賢くて強い人だったのね。あなたを見ればよくわかるわ。あなたはきっとお母様似よ。私とは正反対。情けないったら」
「そんな」
「そうなの。だから聞いて、光もよ」

小町の言葉に、光は椅子に座り直した。
身構えたのかもしれないが、その必要はなかった。


「こないだは悪かったわ。私が変なことを言い出して光を怒らせてしまった。どうかしていたの。今時、長男だからって家を継ぐとか同居とかナンセンスよね」

この間とは対照的な口振りだった。思わず光を見ると、彼も驚いているのがわかる。

「大事なのはあなたたちが幸せになることだから。どこかに、できれば近い方がうれしいけど、新居を探してちょうだい。ね？」
「……ええんか、小町さん」

光の声には戸惑いがたっぷりだ。

「こないだはあないに」
「だからごめんなさいってば。忘れて」
「ほんまに？」
「ええ。葵さんも、ね？」

うなずきなさい。

理性が促している。うなずけばそれで話は収まる。結婚話も前に進む。それでいいでしょ。いいはずだ。でも。

臭いものにふたをするみたいな、そんな会話に思えた。辛いことや苦いことはそりゃあ避けたい。自分のことでないならよけいに、触れるべきではないかもしれないけれど。

ならいつ、聞くの。
せっかくの機会をごまかして、見ない振り聞かない振りして。

それでいいの？
光とこれから歩いていけるの？


「ごめんなさい、できません」

できなかった。小町の目が大きく見開き、予想していたかのように光が唇を噛むのも見えた。

「このままじゃできない。理由を聞かせてください」
「理由」
「光が、小町さんを拒む、理由を」


光が好きだ。
光を産んだ人だから、小町さんにも好意を抱いている。
二人にこんな辛そうな顔をさせたくない。
でも、聞かなくちゃと思う。どうしても。

光は黙ったままだ。小町はゆっくりと椅子に背中を預けた。泣き笑いのような顔で葵をみつめながら。

「あなたは間違いなくお母様似だと思うわ。きれいで賢くて、強い女性」


そうなれたらと願うけれど、決してそうじゃないと葵は知っていた。
たった今もここから逃げ出したがっている、握りしめた両手の震えを止められない自分を、知っていたから。

けれど、逃げまい。


夕焼けは燃え尽きて、窓からは紫の闇が忍び込もうとしていた。