光が戻ってこない。
何日も何週間も、小町は気持ちのやり場がなかった。

悪いのは自分だ。わかっている。
振り返れば傷つけたのは自分だというのに、彼の傷を癒すために何もしなかった。何もしてこなかった。耐えに耐えた彼が爆発するまで、過去と夢に逃げ続けていた。全てを運命と守るべき我が子のせいにして。



突然すぎた融の死に、小町は打ちのめされた。悪夢にうなされる亡霊のようになりながら葬式を終えたあとは、昼間は寝付いて起きあがれなくなった。

融が死んだのが昼日中だったせいもある。傾いた陽射しがそそぐ中で、眠るように死んでいた融の顔は、あまりにもはっきりまぶたに焼き付いて小町を苦しめた。陽射しをおそれた。まるで吸血鬼みたいに。

昼間寝ていればどうしても夜、目覚める。けれど隣に融はいない。ひとりで起きる夜は、時間の感覚や現実との境が不確かだった。認めたくない現実なら尚更だ。

現実と夢を行ったり来たりしながら、真夜中、隣にいるはずの融を探して小町は家の中をうろつきまわった。そして最後は必ず光の部屋に行く。

始めは寝顔を眺めるだけだった。そこに融の面影を見て安心したり喜んだり。だが融ではない。融はいない。

いない？
どうして。

悲しみが滲む。じわじわと怒りに変わる。心が怒りに染まる。
思考回路が次第にねじれてよじれる。

どうして融がいないの？
あの時、光が早く救急車を呼んでいたら。
そうよもしかして。

心が濁ってくる。狂ってくる。
全部、光のせいよ。

何かの、誰かのせいにしようとした。誰のせいでもない、死を。
毎夜毎夜、濁った思いが滴のように注いで。
たまって。

ある夜、どっと。

「だめぇええっ！」



小町が跳び起きたのはダイニングテーブルだった。
ソファでは寝ない。決して眠れない。
窓の外は鮮やかに染まっていた。日が落ちる手前の茜色の空だ。

きれい。なんてきれい。
普通の日もとんでもない日も、空はただその日の色を映し出す。
融が死んでから知った。特別なのは空じゃなくて、人の心だと。

誰もいないキッチンはやけに広い。そうだ、乙女も初音も出かけていたっけ。夕ご飯はいらないと言ってた。光はまだ戻らない。

ひとり。　ひとりね。
いつか、これが当たり前になる。初音だって乙女だって結婚してお嫁に行くわきっと。そうしたらひとりだ。

怖かったんだろうか。
だから、光に強いてしまったんだろうか。
思いこんでそうと決めて、そうあるべきだと、そうあるはずだと、押しつけてしまったんだろうか。懇願して。


ダイニングテーブルに突っ伏して、小町は涙をこらえた。
悲しいんじゃない、情けない。
自分が。

あんなに苦しめた我が子に、なおもすがろうとするなんて。決めたでしょう？　ひとりで立つって。融が生きていたらそうしたように、ちゃんと生きていくのよ、ここで。

子どもたちは巣立っていく。それが当たり前。巣立った後、何かあったら戻ってこられるようにここを守るんだって。決めたはずなのに。

もしかしたら、許してくれたかもしれないと。許されたかもしれないと、そう願って期待して、その気になっていたなんて、情けない。

ぐっと奥歯をかみしめる。
しっかりしなさい。自分にそう言い聞かせる。

光はひとりで立ち直った。
なら私にだってできるはずよ。
やっとつかんだあの子の幸せを、無条件に祝うこと。当たり前じゃない。親なんだから。母親なんだから。

ねえ、融さん。


顔を上げるとあかね色はアカガネ色に錆びていた。わけもなく救われる気がした。悲しみが苦しみが、少しだけ溶ける。
大丈夫。しっかりするのよ。


ピン・ポーンとインターホンが鳴った。
誰だろう、宅配便かしら。
よいしょとかけ声が要ったけど、小町はひとりで立ち上がった。

まさか、光だとは思わなかった。
光が葵を連れて帰るなんて。
息子の、厳しい顔つきに小町は思わず身震いした。





日高家に戻ったのもつかの間、申し訳ないがと鋼に頼んで、光は葵を連れ出した。

「うちで話したいんや」

つかまえたタクシーに乗り込んだ葵は、隣の光をそっと盗み見た。てっきり直哉のことを聞かれると思ったのに先を急ぐばかりの彼。タクシーに乗ったあとはじっと前を睨んでいる。

出張からまっすぐ駆けつけたのはくたびれた背広姿が物語っていた。いつだって身だしなみには気を使っているのに、頬にはうっすらどころかくっきりと影が出ている。朝からヒゲも当たっていなかったんだろうか。

社内で人気のある「光の君」ではない、別の男性を見るようだ。
まだ葵も知らない、ひとりの「男」。

ふと目を落とした葵は驚いた。
彼が膝で握りしめている手が、震えている？


葵の視線に気づいた光が眉を下げた。笑おうとして笑いきれない、見知らぬ男性から不安げな男の子の顔に変わる。守ってあげたくなって手に手を重ねると、もう一方の手も重ねてきた。

「情けないやろ。怖いんや。怖あて震えとる」
「何が怖いの」
頼りなさそうな笑みで答える。

「葵に、嫌われたらて」
「ばかね」

彼の不安を文字通り蹴飛ばす葵だが、光の表情は変わらない。包み込んだ葵の手をぎゅっと握りしめ、前を見る。
「怖いんや」
繰り返した彼はまた黙り込んだ。


源の実家の前に降り立った光は、わざわざインターホンを押した。自宅なのにと思ったが、彼の緊張が葵にも伝わってきて口に出せない。

ドアが開いて現れた小町は、心底驚いた顔をした。前に会った時よりやせたような気がする。光を見て葵を見て、また光を見る。

「急に悪いけど、話がしたいんや」

光の声は断られると思っているみたいだ。小町は断ったりしなかった。ドアを大きく開いて、無理矢理ほほえんだ。

「おかえりなさい」

光は一瞬ためらってから小さく、ほんとに小さく囁いた。

「……ただいま」


彼に付いて玄関に入りながら、母と息子のやりとりの奥底にある、ないまぜの愛憎を葵は感じた。湧き上がるもどかしさとやりきれなさ。

この先になにが待つのか。
初めて、怖いと思った。