かつて好きだった人だ。

突然の別れにどれほど傷つけられたとしても、彼がそれまでの葵の人生に与えてくれたものは決して小さくなかった。

絶え間ない父との軋轢あつれき　。母の死、のしかかった責任と重圧。自分の部屋で布団にくるまって声を押し殺し、心細さと母恋しさに泣いた夜。それでも朝ご飯を作るために一番に起きた朝。

あの頃、直哉は葵の背骨で避難所だった。必死で頑張る日々の中、時に逃げ出したくなる葵を幾度、穏やかな笑みと言葉で救ってくれたことか。男と女の関係になるずっと前から、直哉は葵に与え続けてくれた。大丈夫、大丈夫と繰り返し。

直哉に対してかつての気持ちはないけれど、訪ねてきた彼を突き放せないのは、幼い自分に惜しむことのなかった温かな思いやりと情が、忘れられないからかもしれない。

四つ木工務店までの道を、車椅子の彼と並んで歩く。
「実家に戻るって聞いたわ。どうして」
「他人と寝起きを共にできない。それに」

直哉が苦々しげな口調になる。
「足の動かない男の世話を、上司の娘さんにさせられないさ」

直哉の気丈な態度に忘れがちだが、彼は事故にあったばかりだ。記憶を失ってその上、足が動かなくなっている。ショックを受けていないはずがない。だが彼は立ち向かおうとしている。強い。

「祖父が昔使ってた部屋が一階にある。庭を削ってバスとトイレをつけてもらうことにした。そうすれば最低限自分のことは自分でできる」
「仕事は」
「今の僕が会社に行っても迷惑なだけだ」

十年のキャリアも消えてしまったことになるのか。彼が懸命に積み重ねてきたのに。どれほど辛いだろう。しかし。

「信じられないんだ」

葵の手を握り、直哉が訴えてきたのは仕事のことではなかった。

「君との婚約を解消して別の人と結婚し、婿養子に入った？　僕が？　しかもその後、十年の月日が経っているなんて」

言ってしまえばタイムスリップして未来に来てしまったようなものだろう。彼だけが昔のまま。

「若菜さんとは話したの？」

直哉は周りへ目を向けた。久しぶりの路地は十年前と同じだろうか、変わっただろうか。葵にはわからない何が見えるのか。

「……結婚前後の経緯も聞いたし、彼女と暮らしていたというマンションにも行ったよ。僕の服や物も見た。犬もいた。やたら舐め回された」
「昔から直哉さんは動物や子どもに懐かれたわよね」

彼を嫌う人はいなかったが、子どもや動物はいつも無条件に彼に飛びついたっけ。ふふと思いだし笑いすると、捕まれていた手がぎゅっと握りしめられる。

「何も思い出せなかったし、何も感じなかった。彼女は君じゃない」
「結婚して十年経つのに」
「どうしてそんなバカなことを」
言い捨てた彼は、葵を見上げた。強いまなざしで。

「どうして君は受け入れたんだ」

葵の胸に過去が押し寄せた。怒り、悲しみ、抵抗、自棄。
十年の諦観。
「……決めたのはあなたよ。私が何を言っても聞いてくれなかったわ」

わずかな表情も見落とすまいとするのか、彼は葵を見つめ続ける。
「傷つけたのか」
嘘を言ってもしょうがない。葵はほほえんだ。
「傷つかないほどあなたを好きじゃなかったって、そう言って欲しい？」

自分の顔に何が浮かんだのかわからないが、直哉の表情は苦しげに曇り、ぐっと唇をかんで手を離した。

「すまない」
「覚えてないでしょうに」
「それでも、僕がしでかしたことだ」
「私にとってはもう昔、過去よ」

直哉がまるではたかれたような顔をした。胸が痛む。十年の空白と突きつけられた現実は当時の葵と同じ衝撃だろうか。想像するだけできつい。でも曖昧にはできない。してはいけない。時は戻らないのだから。

「時間は戻らない」
直哉は怯まなかった。

「覚えてなくても僕は過ちを犯した。なら、償いたい」
「償う？」
その響きがなぜか葵をおののかせた。何を。どうしようと言うのか。できるだけ穏やかに諭すように話しかける。

「そんな必要ないわ。あなたは結婚した。覚えてなくてもそれが現実だし、私の知っている直哉さんなら自分のしたことから逃げたりしない。きっと思い出すわ、彼女のことも」

大きくなった声にはほんの少しだけれど非難も混じったかもしれない。直哉は苦しげに顔を歪ませ、うつむく。言ってしまいなさいと何かに急せ　かされる。

「私、もうじき結婚するの」

バネ人形のように彼が顔を上げた。立ち上がれるものなら立ち上がっていただろう。葵の顔をもどかしげに凝視する。

「嘘だ。そんなこと誰も言ってなかった」
「まだ内々だから。父も銀も鉄も賛成してくれてるわ」
「……ほんとうなのか。誰と」

本来なら名前を言うだけだが、今の直哉には光の記憶はあるまい。光は今、どうしているのだろう。つい心がさまよう。そのときだった。

「あおい」


顔を上げたら、光が居た。

すべてが消えた。場所も時も状況も。
会いたかった。
会えなかった時間がどれだけ、苦しかったかを悟った。

「ひかりっ」

直哉を置き去りにして葵は駆けだした。



葵の手ぇなんぞ握るんやない阿呆。ずうずうしい。葵も葵や、なんでそのままにさせとくんや。ひっぱたいて蹴倒してやらんかい。

ふたりを見つめる光は嫉妬と物騒な考えでいっぱいになりつつあった。ふつふつと沸騰し煮えたぎる頭の中を直哉にぶちまけてやりたい。

いつ見ても端正な顔立ちの直哉だが、顔にも腕にも包帯や絆創膏が貼ってあることに遅ればせながら気づく。どういうことだ。それを言うなら彼が座っているのは車椅子だ。

車椅子？

疑問が差し水になって沸騰が収まると、葵の微笑みにも当惑や困惑が混じっているのがわかった。なんだ、何か変だ。不安は大きくなる。だが理由はどうあれ、彼の隣にいて欲しくない。あと一秒たりとも。

「あおい」

呼びかけは無意識だった。自分の声にも驚いたが、もっと驚かされたのは葵の反応だった。

ぱっとあげた顔が光をとらえ、瞬く間に表情が変わる。文字通り光を浴びた花のように見る見る開き、咲き誇る。なんてきれいなんだ。

「ひかりっ」

一直線に葵は走ってきた。彼女の顔からもまなざしからも想いがにじんでほとばしっている。光に向かって。

辛うじて身構えた光は、葵を抱き止めた。温かくて柔らかな身体。耳元でささやく声。
「ひかり、遅いわ。遅いわよバカ」
胸が痛んだ。

ほんまに俺はアホや。アホやな。葵に会わんかったらどないもならんやないか。こんな女は他におらんのに。俺みたいなアホを心底思うてくれる、こんな女は。

「かんにん葵。かんにんや。会いたかった」
「バカバカバカ」
「阿呆にしといてくれるか」
「どう違うのよ」
「同じやけど」
「バカ」


周りのことなど何一つ見えず聞こえない、ふたりだけの空間に浸っていたら、耳慣れない金属音がガラガラと近づき、声がした。

「葵。もしかしてその人が？」

あわてて身をはがそうとする葵を片手でホールドした状態で横にずらし、その後ろの直哉と光は対峙した。車椅子の扱いはまだ慣れない様子だが光を見る目つきは堂々としている。

なんやこいつ。前に会うた時と感じが違うとる？
それはともかく。

「その人、やて？　そらしばらくぶりやけど、初めまして言うほど忘れっぽかったか、あんた。大体、その車椅子はどないしたんや」

鼻白むとか反論するとかは予想したが、ぶたれたように顔色を変えるとは思わなかった。隣の葵があわてふためいて光の口を塞ごうとする。

「光、やめて。事情があるのよ」
「事情やて？　なんの？　どんな？」
「いいんだ、葵」
手を振った直哉はもう一度、光を見た。

「僕は君を知っているんだね。覚えてなくて悪いんだが、名前を教えてほしい」
「……ほんまに覚えてないんか？　源　光や」
「源くんか。二度と忘れないよ。もうひとつ」
「なんや」
「葵を大事にしてくれ」
「あんたにだけは言われとうない」

光の敵意に眉を寄せながら、直哉はゆっくりと車椅子の方向を変える。

「直哉さん、送るから」
「いいんだ、練習しないと。これからずっと使うことになるかもしれないし」
「……なんやて」
「葵、ありがとう。源くん、是非また」

そう言うと車椅子はぎこちなく遠ざかって行った。わけがわからず光は葵を振り返る。
「どないなっとんねん、あれは」

ちらりと光を見た葵はしかし、首を振るだけ。
悲しげに車椅子の後ろ姿を見送っている。


ついさっきの圧倒的な喜びはどこへやら。
不安が再び、じわりと光に忍び寄っていた。