女は謎だ。

自分を傷つけ痛めつけたのも女。
愛して慈しんで育はぐく　んでくれたのも、女。
いい年になってまでウジウジと迷い逃げる自分に、渇を入れるのもまた女とは。

『いい加減にしなさいよ、光！』

携帯から飛び出す乙女のキンキン声は光の耳をつんざき、脳天まで響いてくる。朝の目覚めとしては最悪だ。そう思いながらも光が通話を切らないのは、切ってもまたかかってくるに違いないから。

『いつまで放っておくつもり。どれだけ辛抱づよくても葵さんも人間だから我慢の限界はあるのよ』

俺にもあるわ。
おまえのキンキン声は、俺の限界を試しとるで。

『仕事を理由に逃げるなんて最低よ』

ほっとき。
妹やいうてずいぶんな言いぐさや。

『いつ帰ってくるの？　まだ仕事終わらないわけ？　有能でできる営業がいつまで』
「終わった」
『かかるって……え？』
「せやから終わった。今日、帰る」

言葉の奔流がふっと途切れた。
これで終わればありがたいが、そんなわけはない。

『……ならそこで何やってるのよ！　まだホテルよね？　とっととチェックアウトして帰って来なさーい！！』

予想通りだ。携帯をベッドに放り出したというのに張り上げた声は楽々聞こえてくる。限界や。

『ひかり？　ねえ、聞いてるの？』

とうとうと漏れる叫びを聞き流していたら、声が変わった。振り返った光は携帯を拾い上げる。

「なんで初音まで出てくるんや」
『悪い？』
『俺もおるでえ』
「げ」

抑揚のおかしな関西弁は鉄の声だった。光の喉で思わずカエルが鳴いて、げんなりしながら続ける。

「朝っぱらから集まっとるなあ。初音、仕事はどうしたん」
『光ったらもう昼前よ。おまけに週末。私は非番』
「げげ」

今日は土曜か。ベッドサイドのデジタル時計は確かにもう二桁だ。手のひらで額をごしごしこすりながらぼやく。

「おまえら何を結託しとるんや」
『そんなんじゃないわ』
『あたしだって』
乙女が再び割り込んできた。

『鉄ちゃんに言われてかけたわけじゃないもの。きっかけになっただけ』
「きっかけて？」
『待っても待っても動かない光にしびれを切らせたのよあたしも初音も。あたしたちでさえそうなんだから、葵さんはどれだけつらいと思うの』

ぐっと詰まる。葵の顔がちらつく。

『あたしたちのことはほっといていいの、小町さんのこともよ。でも葵さんをほっといちゃ駄目でしょ』

言われなくてもと、反論できる立場ではない。
そこに今度は初音の声。

『葵さんと話して。全部。光の思ってることでいいから。家のことは関係なしによ』

異口同音に同じことを言う妹たち。にじみ出る自分への気遣いがありがたいようで苦い。
『光、聞いてる？』
物思いを鋭い声が破る。

「聞こえんわけないやろ、その声で」
『大きなお世話よ』
「そらこっちの台詞やて。おまえらアホ兄弟と一緒になんぞ企んどるんちゃうか」
『違うってば！』
むっとした調子で言い返す乙女の声が、急にまた変わった。

『婚約したはずがちっとも話は進まん。相手はなしのつぶて。心配にもなるさ』

真打ち登場か。光の眉がさらに寄った。
銀の声は相変わらずそっけない。おまけに厳しい。負い目があるせいか、よりきつく感じる。そのとおりだから反論もできない。

『あんた、ちゃんと考えてるのか？』
「考えとるわ」
『違う』

ばっさりと斬って捨てるみたいな言い方が気に入らない。
何が違うっちゅうねん。
むっとしたその隙を、銀はあっさり突いてきた。

『葵を失ったらって、その可能性を考えてるのか聞いてんだ』

言葉が意味を成すのに時間がかかった。それから闇の中でどやされたように衝撃を受けて、ぞわっと悪寒に襲われた。きゅっと首をひねられた鶏みたいに全身鳥肌がたつ。口元が凍って息が白くなりそうだ。

「なに、言うて」
『婚約つったって結納したわけでも、親同士が会って了解したわけでもない。んなもんただの口約束と同じだ、あっと言う間にひっくりかえる』
「おまえ」
『油断してんじゃねえって言ってんだ。葵の気持ちひとつに頼って、のうのうと胡座かいてたら、かっさらわれるぞ』

かっさらわれる。
誰に？

『ちょっと銀さん、何わけのわかんないこと。光を脅さないで』
『乙女。銀さんは脅したいわけじゃなくて、逃げてたらそうなるかもしれないって言ってるの。そうよね？』
『だからって光がいじめられるのはいやよ』
『ブラコン直ってねえなぁ』
『鉄ちゃんうるさい』

わきから聞こえる会話は頭を素通りだ。銀の言葉に、光は頬をひっぱたかれたかのようだった。意図的に見ないようにしていた部分へ力づくで目を向けさせられたのに似ていた。恐怖が、光を追い立てる。

葵を。
うしなう。

『ねえ聞いてる？　ひか』
「わりい、切るぞ」

どいつもこいつもかまったことか。ぶつっと通話を切った光は、その場で葵の携帯を鳴らしたが、相手は一向に出なかった。仕方なくバスルームへ飛び込んでシャワーを浴びる。

この何週間か堂々巡りしていた気持ちが出口を見つけてなだれ込んでいく。原動力は恐れと焦りだ。

葵を失う？
冗談やない。

銀の言葉はただの脅し、身内としての説教かもしれないが、何かがそこに潜んでいる気がした。なにか、聞き逃してはいけないもの。見過ごしてはいけない、何か。


チェックアウトもそこそこにタクシーで駅へかけつけ、新幹線に飛び乗った。それでも寝坊がたたって東京へ着くのは午後遅くだ。無駄遣いした時間を悔いた。携帯は相変わらず繋がらない。眠るに眠れず雑誌も読む気になれず、飛び去る窓の景色に慰めを覚えながら、時間が過ぎるのをひたすらに待った。

あおい。

三つの母音に鼓動が高鳴る。
同時に自分を罵倒する。何やってんや俺は。
葵に会いたい。会わんと。
はよう。


膨れ上がる気持ちとともに、東京駅からタクシーをとばした。夏の日の長さが今日はありがたい。馴染んできた路地の手前でタクシーを降りる。引きずるキャスターの車輪でアスファルトに耳障りな音を立てながら、日高家の木造二階屋へ全力疾走で駆け込んだ。

「葵？　葵！」
「っ、なんだなんだ電球野郎じゃねえか」

例によって居間のちゃぶ台の前に鎮座しているのは日高家の主、鋼だ。大黒柱が珍しく驚いたらしくあぐらに後ろ手をついている。

「音沙汰なしで消えちまってた奴がどっから現れたんだ」
「いや出張で」
「出張だあ？　どんだけ長く行ってりゃ気が済むんだ」
「気が済むっちゅう話やのうて仕事やから」
「仕事もへったくれも」
「かんにん親父さん、説教はあとで聞くよって、葵、は……？」

切羽詰まった光は葵のことしか考えてなかったが、鋼の顔にはたと我に返る。
なんや？
俺、今、あほなこと言うたか？

鋼の表情はらしからぬ微妙さだった。怒っているのでも笑っているのでもない。

「葵はその辺にいるだろ」
「その辺て」
「散歩だ。すぐ戻る」
「……迎えにいくわ」
「おい」
荷物も上着も置いて出ていこうとする光を、鋼が呼び止めた。振り返るとやっぱり微妙な顔で言葉を無理矢理、口から押し出すような。

「その、なんだ。あんたのお袋さんは、葵のことが気に入らんのか」
「は？」
「そりゃあんたより年上だし、長男の嫁にしちゃとうが立ってるわな」
「へ？」
「おまけに実家も大したうちじゃねえし」
「……ちょうまち」
思わず声が大きくなるが、鋼は黙らない。

「だけどな、あいつは真面目で優しくて情の深い子だ。母親を早く亡くしてるからあんたのお袋さんもきっと大事にする。嫁に出すからにはうちのことなんぞ気にしなくていい」

いつもの威勢のいい調子とは全く違う、訥々とつとつ　と言いにくそうに、だがまっすぐに鋼は訴える。
「なにか、気に入らんとか気になることがあるんだったら、ちゃんと言ってくれ。なんなら俺が直接あんたんちへ」

光の胸がぎゅっと痛んだ。目の前にいるのは、自分の意地を曲げても娘の幸せを思う、ひとりの父親だ。

「……違うんや」
「何が」
「お袋は葵を気に入っとる。俺が、だらしないだけです」

鋼がいぶかしそうに光を見る。
光はただ首を振って、それから頭を下げた。

「すんません。ちゃんとしますよって、もうちょっと待ってください」
「でもなあ」
「とにかく葵と話さんと」
「おい、あのよお」

顔が見られなくて、まだ何か言いたげな鋼を背中に光は外へ出た。
そこから数歩、両膝に手をついてがっくりする。

家族はここにもいる。それを失念していた自分に腹が立つ。葵のこれまでを思えば鋼はもちろん、銀鉄も、心配するのは当たり前だ。

しっかりせえ、自分。

頬を両手でバンバン叩いてから身を起こす。
そしたら葵が居た。
でも、葵だけではなかった。
彼女がにこやかに話している隣の男は、見間違えようがない。

なんでや。
なんでいまさら、あいつとおるんや。

『かっさらわれても知らねえぞ』

銀の声がぐるぐる回る。ありえないと思いながらかき立てられた不安が、みるみる膨らんで大きくなる。


動揺する光の目はもうひとつのあり得ないもの、樫野直哉が座っている車椅子を見落としていた。直哉に向けた葵の穏やかな笑みだけをにらみ、そして激しく嫉妬していた。