出張先のホテルに光が戻ってきたのは十一時近かった。

元々、光がこっちに配属された新人の頃にとってきた仕事だ。何度めかの更新に当たって他社が誘いをかけてきた気配があり、長年のつきあいと営業力を当てに、呼び戻されたというわけだ。来た甲斐あって今回も無事更新となった。

今夜は取引先を招いてのいわば手打ち式。古巣の仲間からも「やっぱり源だ」と喜ばれたし、どの顔も機嫌が良かった。その場の雰囲気に合わせ笑みを絶やさなかった光だったが、客先を送ったあとハシゴしようとする仲間達の誘いは、明日も早いからと断った。

定宿にしているホテルの部屋に帰り着くと、カバンを落としベッドに座り込む。喜びや安堵感より焦燥感の方が強かった。仕事中もプライベートが頭から離れないのは珍しい。

葵に話さなくては。
強迫観念のようにつきまとう思いが、光を鬱々とさせている。

降ってわいてまとまった結婚話がパタリと先へ進まなくなったのは、怒濤のように押し寄せた仕事のせいではなく、自分と母の確執が原因だ。あんな風にいきなり葵を巻き込むことになるなんて思っても見なかった。

ほんとうに？
頭の奥から別の自分が問いかける。

いつかは来るとわかってたんじゃないのか？　葵との話にやたらテンションを上げていた小町。今同居してるんだから、このままと思っても不思議はない。戻った時にもうよそへは行かないと、行くまいと思っていたし、そう言った覚えもある。

冷静に考えたら小町だけを責められないと思った。小町の願いは、過去への悔いの裏返しだろう。その気持ちは痛いほどわかる。でも。



ドンドンドン。
真夜中にドアが鳴る。
ドンドンドン。
繰り返し繰り返し。
開けるのが怖い。開けたくない。なのにドアは開いてしまう。

立っているのは見慣れた姿。
あまりにも見知った顔だが騙されちゃいけない。
これは鬼だ。
母の顔をした鬼だ。
ほら、眉がつり上がっていく。
見開いた目に赤い筋がいくつも走っている。

『なんであんたは融さんじゃないのよっ』



ガバッと飛びおきたら、ほんとうにドアが鳴っていた。
ドンドンドン。
日付が時間もわからなくなる。今はいつだ、ここは。
ドンドンドン。
やめてくれ。

「やめろって。すいませーん、酔っぱらいです、ごめんなさーい」

ガヤガヤと声が遠ざかる。
どこかのドアが開いて閉じると、しんと静かになった。


上着も脱がずに眠り込んでいたらしい。カーテンも引いていない窓の向こう、ネオンの明かりがぼんやり見える。眼鏡をはずすと光と闇の境がにじんでグラデーションだ。

シングルルームはベッドをのぞくと、細長いテーブルにテレビや茶器が備え付けられただけの手狭さだが、寝に戻るだけだったから特に文句も不便も感じてなかった。

ベッドサイドのデジタル時計は０２：２８。「逢う魔が時」とは普通、たそがれや明け方を指すが、光に限ってはこの時間を指していた。

十年立っても目覚めるのはこの時間。
魔が襲いくる恐怖。


正直、この五、六年は忘れかけていたのだ。確かに家を離れてすぐの大学時代は、ひたすらに学業とバイトに明け暮れながらも、生々しい記憶と不眠に悩まされていた。

だが就職してからは人間関係にも恵まれたし、何より仕事が面白くて全力で打ち込めた。くたくたになるまで働いて倒れ込むように眠る、そのお陰か毎晩の夢もいつしか見なくなっていた。眠れるようになっていった。

だから、帰ろうと思った。帰れると思ったのだ。
事実、戻った直後はなんのこともなく、ああもう大丈夫だと確信すら覚えたのに。


のどが渇いた。

思考に身体が訴えて、焼け付くような乾きに気づく。備え付けの冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出した。値段表を見て高いなと思うが仕方ない。一気に飲み干した水が淀んでいた血とともに全身を駆け巡る。ベタつく身体がいやでシャワーを浴びようとバスルームへ向かった。

狭いバスタブに突っ立ち、シャワーヘッドの下に頭を入れて湯を浴びるのは気持ちよかった。流れ落ちる水しぶきを見下ろす。肌の上を転がり足下にたまって排水口へ吸い込まれていく水は透明だ。
赤ではなく。

まぶたを閉じたら突然、ナイフが浮かんだ。
こびりついた赤い血。
握って笑っている、若菜。

目の前に現れたみたいで、置いていた手で壁を突きとばすようにして、シャワーの下から飛びすさった。転びそうになって後ろの壁に背中ですがる。跳ね上がった鼓動で息が上がって胸が破られそうだ。

なんでいまさら。
落ち着け。

つるつるした壁から離れてずぶぬれの髪を、顔を、両手で拭い払う。前が靄って見えるのは蒸気のせいだ。温まっているはずなのに身震いがくる。カーテンを引き開け、洗面台の前に立った。

曇った鏡を手のひらでこすると、亡霊のような男が映っている。目を凝らしてギクッとした。そんなはずはないのに、首の回りに丸い痕が見えた気がしたから。乗り出して見入る。錯覚だ。決まってる。夢といい若菜といい、今夜は過去にとりつかれてるらしい。

いや、ずっとか。
ずっと、逃げてる。
見返してくるうつろな目のこいつは、逃げ続けているんだ。


視界を遮るように被さっている前髪。濡れて垂れているのを引っ張るように絞る。心が葵を連れてくる。

抱きしめ合っている時、葵は彼の髪をつまむのが好きだ。つまんで引っ張って小さく笑う、彼女の声が好きだ。

『ひかり』

宝物のように彼女が囁くと、名前だけじゃなく自分自身が違うものに思えてくる。人を傷つけ、傷つけられ、逃げることしかできない情けない自分ではなく、強く正しく優しい、別の自分になれるような。

錯覚に過ぎない、今のままでは。


水気だけふき取ったバスタオルを腰に巻いて、バスルームを出る。放り出していたバッグから携帯を取り出した。切っていた電源を入れるとブブブと振動とともに画面が立ち上がる。機械的なのに、息を吹き返すように感じるのは人間だからだろうか。

通常画面の下に「メール２件」の表示。相手はわかっている。
時間順に１件目。１０時過ぎだ。

『まだ忙しいの？　身体は大丈夫？　話すことが色々あるから、時間が出来たら電話して欲しい』

葵のメールは女性にしては簡潔で用件だけのことが多い。ありがちな愚痴や文句や愛の言葉はまず書かない。そっけないのではなく、性格なのだろう。なんたって江戸っ子だし。そう思いながら数分後の２件目を開く。光の指が止まった。

『声が聞きたい。会いたいの』

ぎゅっと絞られるように胸が痛んだ。嬉しさと愛しさと後ろめたさと情けなさと。短いメールがどうして、こんなにもあれこれと詰まった感情を引き起こすのか。


照明を消したままの部屋も窓の外は明るい。ネオンと車の明かりは深夜でも途切れることがない。

葵が待っている。彼を信じて。
話さなくては。わかっているのに考えるだけで身がすくむ。

自分だけでなく、もっといろいろなことがもつれ合い重なりあって、光をがんじがらめにしている。恥ずかしさ、情けなさ、父への思い、母への愛情。そうだ、やっぱり愛しているのだろう、母も。だからこそ他人にさらすことは難しい。それでも。

葵と生きていきたい。
そう願うなら。


救急車のサイレンが闇を裂いた。点滅しながら遠ざかっていく赤いライトは何を暗示しているんだろう。葵からのメールを表示した携帯を握りしめ、光はいつまでも見つめ続けていた。