葵が出勤したのは午後十二時半だった。
ノックして入った社長室で、昼食を終えたらしい陸見がコーヒーを手に振り返る。

親しみやすいけれど端正で重厚な姿は、すぐそばの仕事机にも似ている。彼を前にすると誰もがそうであるように姿勢を正した葵は、謝罪を込めて最敬礼した。

「突然申し訳ありませんでした」
「君が言うならよくよくのことだろう。今日は予定も混んでない。休みにしても良かったのに」

一人しかいない社長秘書が当日朝に休みを言い出したにしては、なんとも鷹揚な応えだ。信頼と気配り。ありがたいと同時に申し訳ない。

「樫野が事故にあったそうだが、容態はどうなんだ」

突発で半日休暇を願い出た理由はもちろん伝えてあった。陸見と直哉は大学時代からの友人で、葵との過去も知っている。尋ねられるのは当然のことだが「樫野」と言われて葵は言葉に詰まった。

樫野　直哉。
彼の名字が変わってもう十年経つというのに。

『僕は四つ木直哉ですよ』

「日高くん？」

名を呼ばれて顔をあげたら陸見が驚いた顔をした。きっと迷子の子どものような顔をしているに違いない自分。葵は置き時計にちらりと目を遣った。

ここにある品はどれも陸見に似ている。時計はよくある装飾だけが先走ったものではなく、かといって実用性だけのデジタルでもない、丸い文字盤は灰銀色で、その上を遊ぶ漆黒の長針と深紅の短針。パズルのようだ。

許される時間はおよそ二十五分ほどか。

「少し聞いて頂けますか」
「君の話はなんでも大歓迎だよ。座りたまえ。コーヒーを入れよう」
「とんでもない、私が」
「いいから。捨てたものじゃないんだよこれでも」

ソファへと葵を促し、鮮やかにウィンクしてみせる陸見に思わずほほえむ。いつもどおりの彼の態度がいつもにも増して葵には頼りで、救いだった。


彼の入れてくれたコーヒーは美味しかった。少し苦みが勝っているのがちょうど良く感じられる。現実の方がより苦い今は。

滅多なことでは驚かない陸見だが、事故にあった直哉が記憶喪失になったと告げるとさすがに言葉を見失ったようだ。

「記憶喪失？」
「ええ」
「よくドラマとか映画とかで」
「それです」
「……ほんとうに？」

簡単に信じられなくても無理はない。目の当たりにした葵ですらまだ半信半疑だ。信じたくないという方が正しいかもしれない。

「具体的に何を忘れたんだい？　まさか自分の名前も年も」
「そういうんじゃなくて、自分のことも家族のこともわかってます。ただ」
「ただ？」
「ここ十年間をきれいさっぱり忘れてしまったらしいんです」

再び陸見が驚きの表情になる。

「そんな風に期間限定で忘れるなんてあるのかい」
「でも忘れてますから」
「十年というとちょうど」

葵が目を伏せる。どう伝えればいいのか迷ったからだが、勘のいい陸見はすぐに要点を突いてきた。

「結婚したことは？」
「……覚えてません。奥さんのことも上司のお嬢さんと」
「君のことは」
ごくりと生唾を飲み込む。勇気が要るが認めるしかない。

「婚約者だと言われました」
「なんとまあ」
「彼は二十九に戻ってしまったんです、社長。若菜さんも若菜さんのご両親も、四つ木の家族も混乱してしまって」

むうとうめいた陸見は腕組みして天を仰ぐと、まっすぐ葵を見据えた。

「つまり彼は、君を愛している彼に戻ってしまったわけか」

そこだ。それこそが混乱の元だ。
ことの始まりを葵は思い出していた。





昨夜遅く、理子を連れてやってきた秀哉に日高家の誰もが驚いた。直哉が交通事故に遭ったという。忠治たちを連れて秀哉も病院へ行く途中らしい。

「兄貴の容態もよくわからないし、臨月間近の理子を連れ回したくないんだ。かといって一人でうちに置いとくのも不安で。悪いけど理子を預かってもらえないかな」

すでにぱんぱんのはちきれそうなお腹を見れば、秀哉の心配はもっともだった。理子は残されるのを嫌がっていたが、秀哉に諭されて仕方なく日高家で待つことになったのだ。

大きなお腹で狭い階段の上り下りはさせられないと、日高家一階の居間に葵と布団を並べた理子だが、ろくに眠れなそうだった。秀哉からのメールは要領を得ず、元々おとなしいタイプでない理子はしびれをきらせ、夜も明けるか明けないかで宣言した。

「病院へ行きます。お義兄さんもだけど、秀ちゃんが心配だから」

理子の気持ちは痛いほどわかった。不安を抱えて待つ方が身重の体には良くないとも思った葵は、タクシーで理子を病院まで連れていった。直哉の容態を危惧し、密かに最悪を覚悟しながら。

幸い、待っていたのは死ではなかった。

病室へ入った葵は、直哉を見てホッとした。
生きている。
しかも元気そうだ。元気すぎるくらい？

「あおい」

自分を呼ぶ声に、彼の目の熱に戸惑った。
たじろいだ。

こんな彼は知らない。
強いていうならずっと昔の、葵が彼を愛し愛されていた頃の。
まさかと思った。


時が遡るなんてあり得ないのに。
どうしてそんなあり得ないことが、起きたのか。





「戻ったのは彼の心の中だけです」

乾いた口の中にコーヒーを含む。
苦みがありがたいと、もう一度思う。

「時は戻りません。昔と今は違う」
「そうだな。戻らない」

陸見の肯定に思わず吐息が出た。

「もう一つ、前と違うことが」
「どういうことだい」

コーヒーカップを握りしめた葵は、残り少なくなった褐色の円を見下ろした。縁についた口紅を無意識に指で拭う。こんな風に拭い取れたら。

「彼の足が動かないそうです」
「なんだって？」
「記憶喪失もですが、頭を強く打ったせいじゃないかと」

陸見の目が大きく見開かれた。

足の異変がわかったのは葵と理子が病室を訪れて間もなくだった。診察をする医師に言われて身体を動かそうとした直哉が、呟いたのだ。
「足が、動かない」
再び全員が衝撃を受けた。

「これから検査するそうですが」
「本人は」
「もちろんショックを受けていました。ご両親もご家族も」


続く不運に誰もが動揺していた。
理子を抱きしめた秀哉が、理子に縋っているようで。

記憶喪失はさておき、自分の身体のことだ。直哉もショックを隠しきれなかったが、包帯を巻いた横顔は青ざめても取り乱すまいとする。
「大丈夫だって、おふくろ。親父も。きっと今だけだ。動くよ」

両親を気遣う様子は昔から変わらない長男らしさで、彼らしさだと思う。その一方で病院にいる間中、直哉は葵の手をまるで命綱のように離そうとしなかったし、彼の心中を思うと葵も無碍にふりほどくことができなかった。

仕事があるから帰らなければと言うとさすがに無理は言わなかったが、また来ると疑っていない彼に、葵の困惑は増すばかり。


「なんてことだ」
聞き終え、口元をゆがめた陸見が気遣わしげに葵を見る。
「君は大丈夫か」
「私、まだ、現実味がなくて」

終わってしまった過去にひょいと釣り針でひっかけられ、引きずり戻されたみたいだ。おまけに新たな状況が積み重なってくる。

「どうしたらいいのか」
「……困ったな」

あらゆる苦難に対処する陸見でも、すぐには意見が言えないようだ。それはそうだろう、想像もしなかった事態なのだから。

「すまない。ほんとうに困るのは僕じゃないし彼でもない。彼の奥さんと、君だ」

葵は若菜を思い返した。

彼女をかばって事故にあったというのに、妻としての十年は忘れられてしまった。まだ血の付いた服を着て、心配と寝不足で目を充血させ、顔は青ざめるのを通り越して真っ白に近かった、若菜。

何度か向けられた目つきの鋭さときつさは、春の事件を思い出させ、正直怖かった。だが、とがめる気にもなれない。

彼女がどんな人間でも、直哉を愛していることだけは疑わない。若菜について葵が知るたった一つの真実は直哉への愛情だ。なのに彼は記憶から彼女を消し去ってとうに別れたフィアンセを熱くみつめている。

熱かった。
あのまなざしが葵を戸惑わせ、不安にさせる。
やっと脱ぎ捨てた過去だというのに。

「源は」
「え？」
「ちゃんと連絡してるのかい、あいつと」

「ええ、でも。直哉さんのことは昨日の今日でまだ。このところ彼は忙しすぎて」
「まさかこんなに仕事が詰まるとはなぁ」

唇をかんだ葵に、陸見がスーツの首元をなで、しかし口調を変えた。

「でも連絡しなさい。時間はおいちゃダメだよ。あれこれ考えず、起きたことを率直に語り合うのが一番だ」
「は、い」
「すまないが、そろそろ出かけないと」

はっとして時計を改め、葵はあわてた。

「すみません、すぐ車を廻してもらいます」
「頼むよ」

秘書が社長に会合の予定を促されるなんて、情けない。
しっかりしなさい。
自分を叱咤しながら部屋を出ようとして葵の目が再び時計に止まった。

いつもはシックにしか見えない黒と赤の針が不穏に、止まらない秒針のせわしなさを不安に感じる。一方向にしか進まない。決して逆戻りしない。それが時計であり、時のはず、なのに。


帰り際、病室の外まで追ってきた若菜は、充血した目で葵を睨んだ。
『直哉さんは必ず直るし、思い出すわ。だから、もう来ないで』
傲慢な口調なのに、切なさが滲んで見えて、辛くて。


（ひかり）

声が聞きたい。会いたい。
抱きしめて欲しい。
葵は強く願った。