バンの車内には、沈黙が隅々まで平べったく均等にのしかかっていた。ハンドルを握る光は無言でちらりとも葵を見ない。ふたりの間に透明な壁があるようで、よそよそしい。その空気は源家からずっと続いていた。


小町が、じゃなくて光と初音、乙女が用意してくれた心尽くしの夕食の間も、家に入る入らないの論争は繰り返された。そのたびに平行線をたどり、せっかくの美味しい料理も喉につまりそうになる。ごめんねと繰り返す初音と乙女が痛々しかったし、必死で食い下がる小町が悲しげだった。何よりも光の頑かたく　なさが葵の心に堪えた。

何を抱えているの。
どうしてそんなに閉ざしているの。

叫びたい衝動に駆られたものの、葵はまだ部外者だ。口出しもためらわれるし、そもそも事情がわからない。口出しのしようがない。

婚約の許しを得て進めるつもりだった式の日取りなど、とても言い出せない。祝いとは思えない重苦しい雰囲気のまま、源家をあとにすることになってしまった。


それもこれも光のせいだもの。
光から口火を切るべきよ、絶対。

そう思って待っていた葵だが、光は何も言わないしどこかに立ち寄ろうともしない。どんどん走る車は葵の実家まですでに半分きている。

いい加減しびれを切らせた葵は、こんな時に限ってひっかかりもしない信号をにらみながら、低い声で言った。

「停めて」
「……なんやて？」
「どこでもいいから。　と・め・て」

聞き間違えようのない一語一語区切った言い方には、かなりの不機嫌が込められていた。明らかに不穏な気配を察知した光がハンドルを握り直し、ちらりとこちらを伺う。


「疲れたやろ。まっすぐ帰った方が」
「ぐだぐだ言わずに停めなさいよ、こんこんちき」

ただでさえ緊張する訪問だったのに、光のおかげでその場の空気は張りつめ固まり息すら忍ばせるようだった。反動もあって葵の口調はつい荒っぽくなる。

「さっさと停めないとここで降りるから」
「大通りの真ん中やで。ひかれてまうやんか」
「車が怖くて江戸っ子が勤まりますかって」

もはや支離滅裂、言ってることはむちゃくちゃだが、声を出したことでため込んでいた疑問が怒りに取って代わりそうだ。ここで事故をおこしては元も子もない。葵は必死で自分を鎮める。

「このまま帰るつもり？　私に何も話さないで？」

助手席からにらみつけると、眼鏡のフレームの下で困ったように眉が寄った。横顔が思案から宥め顔に変わったのが、葵には気に入らなかった。

「やめて」
「まだなんも言うとらん」
「わかるわよ。言わないつもりなら最初から話したくないって言って」

出鼻をくじかれたようで光が視線を戻す。ハンドルをつかんだ人差し指がとんとんと弾かれる。

「話せ言うたり、話さんでええて言うたり。どっちや」
「ごまかされるのは嫌だって言ってるの」
きっとにらむ葵の口調が切り口上になったと思うと、ふっとゆるんだ。

「話したくないのね」

小声で言って顔をそむけた。都内はいつだって込んでいる。陽はとっくに暮れた。窓の外の景色は暗く、ヘッドライトや道路に沿った店舗の灯りだけが存在を主張する。それ以外は沈んで見えない。

沈黙してわからない。


車の速度が落ちて、コンビニと本屋とドラッグストアが並ぶ店の駐車場に滑り込み停まった。エンジン音が消えると、車外の喧噪がＢＧＭのように遠い。ぼそぼそと光が抵抗する。

「姑小姑が待ちかまえとる実家にわざわざ入りたいっちゅうんか」
「乙女さんも初音さんも遠からず結婚するでしょう？　お母さん一人になっちゃうわ」
「縁切りするわけでも疎遠なわけでもないんやで」
「だったら同居でもいいじゃない」
「そやから別居でもええ」
「何があったの」

埒らち　が開かないと思った葵は、危険を承知で踏み込んでみた。恐れはあったけれど、堂々巡りはしたくなかった。

「昔、何かあったんでしょう？　だから」
「やめえ」

ばっさり遮られてしまった。言い募ろうとした葵は彼の表情に口をつぐむ。苦しげで、悲しげな。

「……言わんとあかんか」
「そんなに、言いたくないの」
「言いとうない」
「そう」
葵はとうとう決意の言葉を投げた。

「なら。式の日取りは当分お預けね」
弾かれたように光がこっちを見る。

「結婚って新しい生活をふたりで作ることでしょ。初っぱなからこれじゃ無理よ」
「ちょう待ち」
「ありとあらゆる秘密を打ち明けてほしいなんて言わないけど。今日のはそういうんじゃないでしょ。小町さんや乙女さん初音さんを見てもわかる。避けて、知らないフリなんてできないことだわ」

「結婚、やめるっちゅうんか」
「バカ」
あげた右手で軽く、ほんとに軽く彼の頬をはたいた。

「一度婚約解消されてる女に、軽々しくそんなこと言わないで」
「俺は絶対そんなことせえへん。葵と結婚したいんや」

光の気持ちを疑ってるわけじゃない。無理強いしたいわけでもないけど、聞かなきゃならない。

「お母さんと。何があったの」

光の顔がゆがんだ。いつものひょうひょうとした明るさはみじんもない、唇をかみしめて前を向きフロントガラスをにらむ。駐車場から出ていく他の車の、ライトが浮かび上がらせた横顔は、苦悶だ。葵もきりきりとねじこまれるように痛みを錯覚するほど。

「……時間、くれるか」

絞り出すように言った彼が、ハンドルに突っ伏した。柔らかな髪をなでてあげたい衝動にかられるけれど、今は触れられない。

「小町さんがあないなこと言い出すとは思わんかった。まさか」
低い途切れ途切れの声。
「まさかや。もう忘れたんやろか。十年は長いんか短いんか。どっちや」
ハンドルに乗せた両腕に伏せた顔を、葵の方へ少しだけ上げる。悲しげに笑う。

「葵にはどっちやった。長いか。短いか」
「……短くはなかった、かな」
「せやろ。ようやくの十年や。そないあっさり消えるもんやない」
「光」
「なんであないに簡単なんやろ」

また突っ伏した光の髪をヘッドライトが照らして消える。我慢できなくなって、葵は手を伸ばし髪をなでた。そっとそっと。不意に起きあがった光に抱き寄せられる。

「かんにん。ちゃんと話すよって、頼むから待って」

迷子の子どもみたいな彼が愛しくて、悲しくなった。何があったんだろう。分けてくれたら。慰められたら。話して、と今は言えない。抱きしめられているのに、縋り付かれているようで、葵はうなずくしかできなかった。





ところが、源家訪問のあと光はまた仕事に忙殺された。常にもまして外回りや出張、残業に休日出勤。だが、まめな彼がメールもろくによこさないのは、忙しいからだけではないと葵は思った。それは仕方ないけれど、夏の暑さの中でちゃんと食べているのか、身体を壊さないだろうか。

気をもむ葵のうしろで、式の日取りも決まらないふたりに、日高家の男たちも気をもみっぱなしだった。
「どうなってんだろ兄貴」
「俺に聞いたってわかるもんか」
「若い奴らは何考えてんだ。葵が婆さんになっちまうぞ」

人を年寄り扱いして。
小声のつもりでも声高だから筒抜けの会話に、かちんときながらも葵は知らんぷりして、じっと待っていた。待つしかなかった。



源家訪問から再び三週間がすぎる頃、日高家に飛び込んできた想定外の事件は、養子にいった四つ木の長男、直哉が事故にあったという知らせだった。