葵が光の実家を訪れるのはおおよそ半年ぶり、二度目になる。

あの時のことは折にふれて思い出した。古びていても磨かれた美しい洋館と怒濤のように現れた女性陣の迫力。予想外の展開だったし圧倒されていたし、家に対しても人に対しても誇張された印象を刻まれてしまったかもと思ったりした。

そんなことはあるわけなかった。乙女にや初音にはそれから何度も会っている。小町だってあの事件の時には顔を合わせている。そんなことあるわけないでしょう、バカね。

再び洋館と小町を前にして、はかない期待を抱いた自分を葵は叱った。記憶どおりのインパクトだ。特に人が。出迎える小町の頭上には「熱烈歓迎」の横断幕がはためきっぱなし。タクシーを降りた葵に駆け寄ると両手で手を握りしめられる。彼女の興奮と好意が熱く伝わってくる。

「待ってたのよ、葵さん！」

そのまま、後から続く光もそっちのけで、引きずるようにして家の中へ引っ張り込まれる。

「ちょ、ちょい待ておかん」
「あわてないでよ」

追いすがる兄妹を振り返りもせず、小町は葵と玄関を上がった。てっきりリビングへ向かうと思ったのだが、葵が覚えているリビングとは違う方へ向かっていく。

「最初に会わせたい人がいるのよ」

結婚して家を離れている長女と次女以外に誰がいただろう。いぶかしむ葵をよそに小町は玄関脇にある扉を開けた。


そこは書斎だった。八畳ほどの広さは本棚で埋まった半分は薄暗く、残り半分は明け放たれた大きな窓から夏の日差しがまぶしい。窓下をかっちりした大机と座り心地のよさそうな椅子が占拠している。

机の中央にある一輪挿しを添えた写真立てに気づいて葵はハッとした。穏やかな笑みを浮かべた男性は光とよく似ていた。

「私のダーリン、融さんよ」

入り口で立ち止まった葵と光たちを後目に、つかつかと机に歩み寄った小町は写真を手に取った。ガラスを撫でる指先からこぼれているのは愛情。写真を葵に向けて話しかける。まるで生きている人のように。

「ダーリン、光の彼女の葵さんよ。美人でしょ。光はあなたに似てメンクイよね」
後ろで初音が吹き出した。乙女のつぶやきも聞こえる。
「つまり自分が美人てことね」

苦笑をこらえて振り返った葵は光の表情に驚いた。何だろう、どこか痛みをこらえたようなひきつった笑顔。見ているのは父親の写真？　それとも？　向き直ると小町はすでに背中だ。

「いきなりごめんなさいね。光の決めた人をまず融さんに会わせたかったの。リビングへ行きましょうか」

彼女の声がかすかに震えたように思った。



掛け値なしに美味しい紅茶だった。当然だ。小町はティーサロン「World's　End」の女主人でもある。暑い夏に紅茶なんてと思いがちだが、葵の前におかれたダージリンのストレートは芳醇な香りを漂わせ、スプーン一杯の砂糖はさらさらと砂金のように黄金色の渦の中できらめき溶けた。

舌にこっくりした甘さと味がしみる。初めてこの家を訪れた時にも入れてもらったけれど、改めて思う。
「ほんとに美味しい」
「ありがと、嬉しいわ。ケーキもあるのよ」

キッチンへとって返す小町の背中に乙女がさささやく。
「ケーキも買ってきたものだから、食べられるわよ」
意味が分からず首を傾げる。

「それってどういう？」
「やだ、光ったら話してないの？」
とんでもないと言わんばかりだ。首をすくめる光を見て初音が手招きするので、テーブルの上で頭を寄せあう。

「小町さんは料理音痴なの。紅茶以外の何かを万が一作って出されても口にしないで」
「音痴どころじゃないわ初ねえ、あれはテロ。殺し屋レベルよ。絶対食べちゃダメ」

冗談だろうと光を見上げると、親指と人差し指で小鼻を摘みながらこれも身を屈める。
「小町さんの作るもんは昔から親父しか食べんかったし、食べたら必ず腹こわしとった。ある意味才能や」

葵は初めて訪れた時の朝食を思い出した。そういえば小町は女王様のように座っていて、作っていたのは光や姉妹たちだったっけ。一家こぞって料理上手と感心したけれど、母親に作らせないために子ども達の腕が熟達したとでもいうのか。それってどういう？

「何か言った？」

寄せあっていた四つの頭がぱっと散った。ケーキと、今度は涼しげなグラスをトレーに乗せた小町がやってくる。ぎろりと鋭い目を子ども達に向けてから、にこやかに葵の前にグラスを据えた。

「暑いから二杯目はアイスティーにしたわ。アールグレイ。どうぞ」
「すみません」

冷たさと味を喉が喜んだ。こんなに美味しいお茶を入れる人がほんとに料理音痴なのかしら。半信半疑の葵だが、テロだ殺し屋だと言われるレベルでは試してみるのも命がけよね。脳裏を駆け巡る思いをよそに、小町のおしゃべりは止まらない。

「一緒にいるといくつになっても子どもみたいで。兄妹ってそういうものかしらね。葵さんは弟さんがいらっしゃるんですって？」
「はい、二人。どっちもとっくに社会人なんですけど、家ではやっぱり子どもみたいで」

「ご両親は？」
「母は私が小学生の頃亡くなりました。父は元気です」
「まあ。葵さんはお母さん代わりだったのねきっと」
小町が葵を、それから光を見る。

「あなたたちは似ているのかしら」
「あほ。全然ちゃうわ。葵の弟らはうちと違うてしっかりしとるし」
「えーあれがぁ？」
「あら、乙女も知ってるの？」
「え、あ、うん」

小町に聞き返され口ごもる乙女に、光が無音で「あほ」と口を動かす。悔しいのと困ったのとで乙女も口をパクパクさせている。鉄とつきあっていることを小町は知らないらしい。初音と目が合うとこれも小さく首を振る。銀のこともか。

やれやれと思う。息子のみならず娘たちまで日高と縁を結ぶことになったら果たして小町は喜ぶかどうか。スポーツチームのトレードじゃあるまいし。ごちゃごちゃと考えている間に小町の話題はあっさり移った。

それが爆弾だった。

「私の部屋を改装しようと思ってるの」
「改装？」
「どうして」

乙女と初音も聞いてなかったらしく驚いている。葵はきょとんとするが、小町はうきうきと言葉を続ける。彼女の頭上では相変わらず横断幕が元気にはためいて見える。

「あちこち手直ししてもらおうかなって。私が光の部屋に移ればちょうどいいでしょ？」
「何の話や」
光の声音がすっと低くなった。だが小町は気づいていない。

「だから、新婚さんを迎えるためにね」
「いらんこっちゃ」
光のそっけない言葉も意に介さない。わけもなくひやりとした葵は口をはさもうとするが、曖昧なことしか言いようがない。

「あの、まだまだそんなこと」
「そんなこといってたらあっと言う間よ。ミニキッチンをつけてもいいかなって」
「無駄や」
「無駄じゃないわよ、あれば絶対」
「ここには住まんから」

はためいていた小町の横断幕が突然、はさみでちょんぎられたみたいにちぎれて消えた。降って湧いた沈黙の中、光は淡々と続ける。

「遠くにはいかん。藤ねえたちと同じや。近くで適当なとこ借りるし」
「……どうして」
信じられないという顔で小町がようよう声を絞る。さっきまでの喜びは跡形もない。どこに住むとか具体的なことなどまだ考えてもなかったのに。おろおろする葵の前で小町が言い募る。

「そんな必要ないわ。部屋はあるでしょ。桐子や藤尾とは違うでしょ。あなたは長男で」
「今時そんなん関係ないやろ」
「もう出ていかないって言ったじゃないの」
「俺かてそのつもりやったんや！」

怒鳴り声はびりびりと空気を震わせた。思わず葵は身をすくめる。こんな時、身内の遠慮のなさは裏目に出るのは良く知っている。
「だったらどうしてよ！」
小町が負けずに張り上げた声は悲鳴みたいだ。

「できるて思うた。もう平気やなんとかなるて」
ふっと、燃え盛った炎が弱まる。声がしぼむ
「やのに。凝り固まったもんがまだ溶けん。だんだん苦しなる」

うなだれる光。机の上で握りしめた彼の拳が震えている。別人のような脆さがにじんで思わず葵は手を伸ばす。でも触れたら壊れそうな気がする。ぼそぼそと声は続く。

「せやのに小町さんの部屋？　親父と小町さんの部屋やろ？　そんなん無理に決まっとる。無茶や」

上げたまなざしの暗さが、自分に向けられたわけでもないのに衝撃的だった。小町の顔が蒼白だ。わなわなと唇が開いて閉じる。光の声がだめ押しする。

「ここには住めん。　……かんにん」


その場の誰もが青ざめていた。葵にはわからない何かが、彼の言う凝り固まった何かが、光を家族から隔てている。

一体何が？


出窓からの日差しがじりと延びる。
黙りこくった部屋とは真逆の夏の日差しがまぶしすぎて痛かった。