その後、葵の源家訪問がさらに遅れたのは、陸見社長が有言実行したわけではなく、正真正銘仕事のためだ。

かねてより営業部が熱心に口説いていた企業が急に態度を軟化させたため、こぞって対応に追われてんてこまいとなった。うまくいけば大きな成果が上がるだけに社長にも、当然秘書の葵にもその状況は細かに報告される。

会社としては喜ばしいことだし、中心となって活躍しているのは彼氏だ。喜ばしさ二乗だが、必然的に婚約話は棚上げとなって痛しかゆしだ。

「悪いな、日高くん」

そういう社長も痛しかゆしな表情で憎たらしくも思ったが、こればかりは社長のせいではないのがはっきりしている。あきらめるしかなかった。


事態が落ち着くのに三週間近く。やっと源家を訪れることになった日曜は、よりによって仏滅だった。気にしたのは葵ではなく父や弟たちだ。

「吉日とか厄日とか知らねえのか」
鋼の小言は予定が決まった週中日からずっとやまない。

「どうせ延びっぱなしなんだし。違う日にしろよ」
銀がぼやく。

「土曜にすりゃいいだけじゃん」
鉄まで口を出す。

「昨日まで仕事だったの。今日あけるのだって大変だったんだから」
「なんだなんだ、電球野郎はずいぶん売れっ子だな」
「ぽっと出のお笑い芸人かよ」
「ああ似合ってる。マイク持たせたら一日中しゃべってそうだ」

一瞬黙った三人が思い浮かべたものは一緒だったらしい。人差し指をつきあわせ声をそろえて。
「「「蝶ネクタイ！」」」

人の緊張も知らないで。初対面ではないものの、光の家族に婚約者として会うと思うとこれまで味わったことのない緊張感だ。どっと笑い出す男たちに呆れるしかできなかった。

おまけに、絶妙のタイミングで本人の声がする。

「おまっとうさん、彼氏のお迎えでっせー」

暑い夏場は引き戸が開けっ放しの木造家屋の、立てかけられて陰を作っているよしずをくぐって現れた光は、水色のポロシャツにボトムは生成色。眼鏡の細いフレームまで図ったようにさわやかさ。

なのに全員の視線は二つボタンをはずした喉元に集中する。理由がわからない光は目を瞬かせて首を傾げる。

「なんやえろう注目されとるなぁ。はいはい、葵さんのダーリンでっせ。親父さんのもうすぐ息子で銀鉄くんのもうすぐ兄ちゃんや。ほれぼれするほどええ男やろ？」

まさしく立て板に水、流れ落ちる光のしゃべりに三人の頭ががっくりと落ちる。葵ですらちょっとテンションが高すぎるんじゃないかと思う。自宅へ招く当人が緊張するとも思えないのに。

「息子。むすこか？　おりゃあ頭痛が」
「蝶ネクタイしてマイク持ってた方が納得できるんじゃないか」
「もうすぐ兄ちゃんてなんだよ、こんなんが兄貴かよ。せめて弟なら勘弁してやったのに」

頭を寄せ集めて、そのくせそれぞれ誰の話も聞かずにぶつぶつ言い続ける三人を視線で跨いで、葵へと光がにっこり笑う。ゆっくり会うのは久しぶりのせいか、一段と笑顔に磨きがかかって見える。やだ動悸が。

「葵、支度は」
「できてるわ」
「ほんなら行こか」
うんとうなずいた葵が三和土へ降りて靴をはくと、あわてて追いかけてきた鋼が葵と、光もよびとめた。

「待て待て」
握っている火打ち石をみて戸惑う光を、じろっと見上げた鋼は理由と言わんばかりにぼそっとつぶやく。

「仏滅だからな。切り火くらいしねえと」

慣れた調子でカチカチっと石を擦る。小さいけれど確かな火花が葵と光の肩に降るのをみて満足したように火打ち石を懐にしまい込む。

「土産は持ったのか」
「持ったわ。水月庵のところてん」
「よし行ってこい。　源さん」

ここしばらく、鋼が光を名字で呼んだことはなかった。改まって名を呼ばれ、光が目を白黒する。まっすぐ背を伸ばす鋼に葵まで驚く。まさか。

「娘を頼みます。ご家族のみなさんへどうぞ、よしなに」

両膝に手をつき背中が見えるほど頭を下げる鋼。葵は自分の目が信じられなかった。

傲岸不遜で滅多なことでは人に頭を下げない父が、自分のために光へ頭を下げている。銀と鉄まで後ろで倣っている。そびやかしてばかりの頭が三つ、葵の幸せを願って。

ああもう、こんなところで泣いたりしたらお化粧が落ちちゃうわ。うちの家族はどうしてこう爆弾ばかりなの。ぐっと奥歯をかみ、紙袋を下げた左腕を右手でつねって必死で涙をこらえる。固まっていた光はつばを呑み込むと、しっかりお辞儀を仕返した。

「はい、確かに」

日高親子がそろって誰かに頭を下げるなどという、滅多におめにかかれない状況に、ご近所からばらばらと人が集まって来る。

「ちょっとちょっと」
「棟梁んち、なんかやったの」
「いい男だけど何者だい」
「葵ちゃんの彼氏？」
「切り火なんか切って、祝い事かね」
「だって仏滅だよ」

まずい。
逃げられなくなる。

状況を察知した葵はにじみかけた涙を振り払い、頭の下げっこしている光の腕をぐいと引っ張った。

「お父さん、行ってくるから」
「うわ、葵て」

「おう」
「葵、しっかりな」
「負けんじゃねえぞ」

負けるって誰によと突っ込む余裕はなく、集まったご近所さんへのんきに手を振る光を引きずって、葵はその場を後にした。



「やっぱりあかんかったかな、仏滅は」

止めてあった小町のバンを走らせてからも、しばらく黙って運転していた光が口を切ったのはそんな問いだった。

「無理せんと来週にしとけば」
「今日がいいって言ったのはあたしだもの」
「せやけど」
「こま……お母様、反対されてるの？」

思わぬ質問にぱっとこっちを向いた光が、あわてて視線を戻しハンドルを握り直す。

「まさか。すぐわかるけど、嬉しゅうて嬉しゅうてどうにかなりそうや」
「だったら関係ないじゃない？　仏滅でも大安でも」

光に、と言うより自分に言い聞かせるみたいだと思う。家を出るときは忘れていた緊張がふくらんで戻ってくる。彼と一緒に彼の家族に会うだけでしょ、三十にもなった大人が何びびってるんだか。情けないったらと自分を叱咤する。

「切り火まで切ったんだから、大丈夫」
「うちは大歓迎なんやから、心配いらんわ」
「そうよね」

ずっと力こぶの自分がおかしくなった。ふっと笑うと肩の力が抜ける。今日笑ったのは初めてだ。光の左手が伸びて葵の右手を握る。

「ようやっと笑うたな。むっつかしい顔ばっかしとるから、どないしよう思うたわ」

温かな手。
心配しすぎよ。大丈夫。

住宅街の曲がりくねった道をゆっくり辿ると、ティーサロン「World's　End」の前で乙女と初音、そして飛び跳ねて手を振る小町が見えた。やっぱりと微笑んで振り返った光の横顔が、みょうに厳しくて驚く。

「光？」
「あ、ああ。言うたとおりやろ？」

取り繕ったように笑う光の、瞳に何か痼しこ　っている気がする。
なんだろう。そういえばやけにテンションが高かったような。
考えすぎかしら。

やっぱり仏滅？


車は止まることなく、待ち構える三人の前に滑り込んでいった。