同じ金曜の同じ時刻。
葵が乗り込んだタクシーは滑るように走り出した。

ぼやけたヘッドライトの群れが車窓を筋のように流れていく。
出張先で、光はどうしているだろう。
葵が思ったとたん、隣から尋ねられた。


「源からは連絡あったかい」
「昨日、着いた報告はありましたけど」

反射的に答えてから、気まずそうに目をそらす。プライベートについて答える義務はないのだが、彼が相手ではお題目通りとはいかない。陸見くがみ　社長は葵にとってただの上司ではなく、秘書としての自分を評価しわざわざ雇ってくれた恩人とも言える人だ。


「油断も隙もないとはあいつのことだな」
「え」
「他人様の挙式の夜にプロポーズなんて、お手軽すぎないか」

思わず真横をまじまじと見る。まさか社長の耳にまで届いているとは思いもしなかった。陸見は二次会には出席していなかったのに。葵の視線を全く気にせず、陸見はぶつぶつと彼らしくない文句を吐き続ける。


「本社へ戻したのは一生の不覚だったかもしれんな。もう少し思慮深く行動する奴だと思ったんだが」
「社長？　あの」
「あれだけ浮き名を流しておいて、僕の秘蔵っ子を断りもなくかっさらうとは。万死に値するぞ」

何か言わねばと開いた口を閉じる。秘蔵っ子とはもしかしたら自分のことだろうか。光栄ではあるが、陸見の脳内で光の命が風前の灯火ともしび　とあっては喜ぶわけにもいかない。


「社長は源さんを気に入ってらっしゃると思ってました」
「そりゃあ気に入ってるさ。源を入社させたのは僕だからね」

光に聞いた話を断片的に思い出す。

「確か、社長自ら面接されたとか」
「面白い奴でね。大学四年間はバイトと勉強で明け暮れたそうだ。多種多様なバイトを渡り歩き、そのどれもでそこそこの評価を得た反面、学業にも熱心で教授には院に進めと、再三再四願われたそうだ」

そっちは初めて聞く話だ。

「大学院にすすまないのかと尋ねたら、象牙の塔にこもるよりは雑踏を泳ぐ方が性に合ってるとうそぶいた」
「彼らしいですね」

葵が微笑みながらそう言うと、陸見はうーんと後ろに寄りかかってタクシーの低い天井を仰いだ。


「日高くん」
「はい？」
「源と結婚するのか」
「はい」
返事は自分でも意外なほど率直にできた。なのに。

「大丈夫か」
「……何が、でしょう」

尋ねられた意味がわからない。
葵の困惑顔を、陸見に横目で注視される。


「僕は源を買っている。営業の才能も人物的にも。だが開放的なようで厚い殻を心に抱いているとも思っている」

ドキリとした。陸見が言っているのは光のことだが、まるで自分のことを言われているような気がした。


「君と出会ってから肩の力が抜けて、くつろいだ顔が本物になってきたのは感じていた。だが抱えているものがなくなったかどうか」

陸見が葵を今度はまっすぐ見た。


「それが何かを知ろうとしたことはないし、知ろうとは思わないが、君には話しているのか」
「ええ」

頷いたのはおそらく、若菜とのことだと思ったからだ。

「話しているのか、そうか。なら僕の取り越し苦労か」

陸見がほっと表情を和らげる。


「めでたい話に難癖をつけたいわけじゃないが、君をうちへ引き抜いたのは他ならぬ僕だ。昔のこともある」
「社長」
「君がまた苦しむのを見たくはないからね」

思わず葵は眼を伏せた。陸見の気持ちがありがたかった。


「それにしてもけしからんな、あいつは。少なくとも僕にはまず報告があって然るべきだろう」
「す、すみません。急に決まって」
「腹いせに、とばしてやった」
「……はあ？」

聞き違いだろうか。あまりにもらしくない台詞を確かめようとする葵に、陸見は涼しい顔でしらっと言ってのけた。


「出張。　急ぎでなくてもよかったんだが、急がせてやった。ざまあみろ」
「社長……」

おかげで向こうの家への挨拶もとんでしまったんですが、とは言えず。笑うべきか泣くべきか、それとも怒る？　なんだか力が抜けて葵の表情は中途半端なものになった。

陸見はというと、いつもの食わせ者らしい顔に戻ってにやりとする。全てお見通しなのかもしれない。その証拠に。

「当分せっせと邪魔するから。覚悟しておくように」
「……もっと、ですか？」
「まだまだこれから」
「ご冗談、ですよね？」
「いやいや」
「しゃ、社長〜」

滅多に聞けない葵の情けない声に、陸見の高らかな笑い声がかぶさる。交差点で信号待ちしていたタクシーは、青信号に勢いよく発進していった。