ずっと昔から兄の幸せを初音は願ってきた。
ようやくふさわしい相手が現れ、その相手との結婚を決めたという。
めでたい。心から祝って上げたいと思うけれど。

「次はあなたよ、なんて言われたくないわ」

どんと拳で叩いたテーブルが小刻みに震えて、ストレートのアイスティーが背の高いグラスからこぼれた。あわててナプキンで拭きながら見ると、危険を察知した銀はソーサーごとコーヒーカップを持ち上げていて、やれやれという表情をしている。それもまた癪に障る。

娘は父親に似た人を好きになると誰かに聞いた覚えがあるが、この人はどう見ても父には似てない。どちらかといえば兄だ。イケメンで回転が速くて、腹黒い。乙女にさんざん説教したのに自分もブラコンだったのか。あぁやだやだ。

アイスティーに覆い被さってがっくりしたら、安全を確認した技師のようにカップとソーサーをテーブルへ置いて、銀が聞く。

「頼むから順を追って話せよな」

金曜の夜。久しぶりのデートで待ち合わせるなりこれかよと、言わないが言いたいのが見え見えだ。それもそうか。どこから話そうと初音は思案した。発端はもちろん、兄の結婚話に決まっている。

結婚。　あの兄がほんとうに？
初音が襲われているのは喜びと混乱と、不安だった。



あの夜、リビングで電話をとったのは小町だった。
初音も乙女もそこにいた。

「はい、あら光？　二次会はまだ……やってるみたいね、あんたにしちゃ飲んでるわ間違いなく。はいはい、何？　え？　何ですって？」

のんきに受け答えしていた小町の声が尻上がりに甲高くなっていく。何事だろう。ダイニングテーブルで本を読んでいた初音は、ソファに寝そべってテレビを見ていた乙女と顔を見合わせ首を傾げた。

何かにつけて素っ頓狂な母ではあるが、度胸と肝っ玉はそんじょそこらの人よりも大きく座っているのに。

「もう一度言って！　誰が？　あんたが？　葵さんと？　けっこん？　けぇっこぉんん？」
「「結婚！？」」

立ち上がろうとした初音は椅子ごと後ろへ倒れそうになり、テーブルの角でイヤと言うほどすねを打った。乙女はソファから転げ落ちて頭を打った。

「いったぁああい」

悲鳴は乙女だ。初音は痛みに声も出ないのに、叫びながらもなんとか小町のところへ這うようにして近づいていく妹の天晴れな根性ときたら。さすがブラコン、なんて言ったら首を絞められてしまうだろうが。

「小町さんってば、あぁもう痛いっ、光がなんだって？」
「結婚するんだってよ？　葵さんと！」

母の答えの一語一語にハートマークが付いて聞こえる。有頂天とはこういうことか。

「嘘よ」
「ほんとよ」
「だって」
「ほら、聞けば」

乙女の耳に受話器が押しつけられた。その顔が見る見る曇り、しぼみ、目が潤んでくる。とうとう我慢しきれなくなったのか、通話口に向かって叫んだ。

「光のばっかああああーっ」
「ちょ、馬鹿はあんたでしょ、もう。もしもし？　もしもし、光？」
「乙女！」

リビングを飛び出していく乙女と、いまだ受話器を握りしめてハイテンションの小町。初音はというと半信半疑、というより疑い７割だ。葵と光はお似合いだと思うが、あまりにも急すぎる。イベントごとには用意周到な兄らしくなかった。

とにかく本人の口から聞きたいと思ったのに、その日どころか翌日になっても兄はいっこうに戻って来なかった。仕事だった自分よりも帰りは遅く、兄の顔を見たのはさらに翌日の朝食時。しかもものすごい仏頂面で、初音は思わず退いてしまった。

「お……はよう」
「ああ」
「どうしたの、すごい顔」
「いやなぁ、いろいろあって」
「あーっ、光いたーーっ！」
「ばっ、あほっ、乙女やめ……っっ」

形相が変わった光はしがみついた乙女をふりほどくと、ダイニングから飛び出していった。どうやら洗面所方面へ。残された乙女まで仏頂面になる。

「光ったら酒くさーい」
「あれって二日酔い？」
肩をすくめた乙女が自分の席にすとんと座る。

「鉄ちゃんのメールがいまいち要領を得ないんだけど、向こうのご家族になんとか認めてもらえたらしいの。その代わり鉄ちゃんや銀さん、お父さんに飲まされたって。祝い酒じゃ逃げられないもん」
「あー、そう」

つまり結婚はほんと、本決まりなわけだ。喜ばしいことなのに初音にはどうも現実味がない。

「なんだ、初ねえは銀さんに聞いてないの？」

こういう時、銀が自分から説明をくれるはずもない。昨日は自分も仕事に追われていたし。かといって聞いてないとは言いたくない。姉としてのプライドだ。

小町がアイスティーを持ってきたのでどちらも黙った。二人が葵の弟とつきあっているのをまだ小町は知らない。氷を浮かべたガラスのピッチャーを手に光を気にしている。

「光が二日酔いなんて久しぶりねえ」
「お酒強いもんね。小町さん譲り」
「あら、あたしの血筋と限ったわけじゃ」
「お父さんはグラスの半分で真っ赤になってたじゃないの」

初音の指摘にぷうっと膨れた小町がいつもの言い訳を始める。

「隔世遺伝よ。おじいちゃんがすっごい強かったんだってば」
「お父さんの？　小町さんの？」
「どっちでもいいの。そんなことより、光」

百万遍も聞かされている言い訳はここからが長いのだが、今の小町の興味は別のところにある。戻ってきた光に飛びつかんばかりにして睨まれる。

「ねえ葵さん、いつ挨拶に来てくれるの？」
「え、来るの？」
乙女が小町の言葉をなぞる。

「あちらのお許しが出たら次はやっぱりうちでしょ」
「許すも許さんもおかんはすでに熱烈歓迎やん」
「だからってけじめってものが」

「へいへい、たぶん週末」
「たぶんてなによ」
「おかん、頼むから絡まんといて、ガンガンするやろ。葵の予定も確認せんと」
「何で決めて来ないのよ」
「あのおとんと弟たちに囲まれてそないなヒマが……あかん遅れる」
「ちょ、ちょっと、光ってば」

飛び出していく光を玄関まで小町が追いかけていく。残された初音と乙女は顔を見合わせ肩をすくめる。初音は乙女の顔色をうかがった。

「大丈夫そうね」
「なにが」
「光の結婚」
細くきれいな眉を上げた乙女が、鼻で笑った。

「時間の問題だと思ってたもの。その時間があまりにも短くてびっくりしたけどね」
「突然すぎるわ。光らしくない。まさかできちゃったわけじゃないでしょうね」
「うわ、初ねえったら恐ろしいことを」
「恐ろしいって、珍しくないでしょ」
ちっちっと乙女が指を振る。

「日高のお父さんに会ってないから言えるのよ。もしそうだったら即入籍、婚姻届出すまで監禁脅迫説教だって」

光や乙女が語る「日高のお父さん」像はかなり危ない。時代劇に出てくるねじり鉢巻に法被はっぴ　を着た大工の棟梁とヤクザを足して二で割ったようなイメージが初音には貼り付いてしまっている。やばそう。

「脅されて決めたんじゃないでしょうね」
つぶやきに乙女が呆れた顔をする。

「あるわけないでしょう、光よ？　初ねえったらどうしたの？　なんだか結婚に反対してるみたい」
「そんなわけないでしょ」

そんなわけじゃないけれど。

「週末よ週末っ」
踊りながら戻ってきた小町の、浮かれた様子に初音は疲れ気味の笑みを浮かべるしかなかった。


しかし、ことは小町の思惑通りには運ばない。週の後半から肝心の光が出張になった。帰ってくるのは週明けだという。おかげで葵の源家訪問は繰り延べられてしまった。期待ではちきれんばかりになっていた小町は憤懣やるかたなく、余勢を娘たちへぶつけることになった。それも日頃は口にしない方向で。

「次はあんたたちの番ねって、小町さんたら」
「何の」
「結婚よ」
「へえ」
銀のは相づちなのか聞き流してるのかよくわからない。

「やっぱり初音かしら、年功序列ねって」
「ほお」
「小町さんと年功序列なんて、水と油、猫に小判、馬の耳と念仏よ」
「馬の耳に、じゃないのか」
「届きすらしないんだって。昔からしきたりとか規則とか大嫌いなくせに。彼女のボキャブラリーに入ってたのが奇跡だわ」

「そこまで言うか」
「だって」
「要は年の順だろ。誰でも言うさ」
「あなたも言われる？」
疑わしげに聞いたら珍しく目をそらした銀が、ぼそっと言った。

「あーっとそういえば。　ばれたから」
「……なにが」
「親父に。俺が、姉貴の彼氏の妹とつきあってるって」
こんがらかった糸のような言葉をたぐりよせるのに十数秒。

「うそ」
「ちなみに親父は乙女ちゃんのことも知らなかったけど、一緒にばれた」
「うっそー」
「で、俺も攻撃に遭ってる」
「なんの」
「電球野郎の妹で跳ねっ返りの姉ちゃんてのははどんな娘だ、とっとと連れてこいって」
「うっそぉおお」

アイスティーの横に突っ伏した初音の脳裏で、ねじり鉢巻きに法被はっぴ　姿の大工風ヤクザさんが手招きする。連れてこいってそれじゃまるで。

「結婚するのはあたしじゃないのに」
「俺もまだプロポーズしてない。あわてるな」
「うん……うん？」

テーブルに片頬をつけたまま銀を見上げた。なんだろう今の発言はすごく、すごく問題なことを曖昧に遠回しに言われたような。いつもの初音なら問いただすところだが、今日は聞く気力がない。他に確かめたいこともある。

「ねえ、光。　嬉しそうだった？」
「そりゃもう。見るからにバカップル、選手宣誓してたくらいだ」
「宣誓？」
「俺達の前で手を掲げて『私たちは結婚します』だとさ。その前のプロポーズも逐一見てたってのに」

「待って待って、プロポーズしてからお宅へ伺ったんじゃないの？」
「違うな。あの電話はたぶん、酔った勢いだ」
「……やっぱり」
「でもその後のは本気で正気。腹くくって根性据えてたぞ。葵をぼろぼろ泣かせてたくらいだ」

銀の目は姉を語る時に限って優しげな情のこもった色合いになる。ここにもシスコンねと思いながら、ブラコンの自分が文句言えるはずもない。光が本気ならそれでいいのだ。でも。

「大丈夫かしら」
「何が」
「光よ」
「だから何が」

何がと聞かれてこれがと言えるならいいのだが、初音の中に在る漠然とした不安は家族以外には説明しづらいものだ。

「初音？」

当惑顔の銀に答えようがなく、初音は質問ですり替えた。

「ねえ、あなたのお父さんて日高組の親分なわけでしょ？　実はヤクザってことないわよね？」
「……はあ？」

いつもクールな銀がぽかんと口を空ける。その間抜け面を見て、好きだなぁと思うんだからどうかしてる。小町の年功序列論もあながち、はずれてなかったりして。

そのためにはまず、光がちゃんと結婚してくれなきゃ。
小町さんも大喜びしてるんだもの。
大丈夫、よね？


なんとか笑っているけれど、言葉に出来ない何かがお化けのように潜んでいて、初音をやっぱり不安にさせるのだった。