しん、と沈黙が場を支配した。周囲は息を潜めて鋼すら何も言わない。
光の、眼鏡の向こうの目は真剣だ。
返事を待ってる。

返事しなきゃ。
迷ったりしない、だって。

「なあ聞いとる？　俺と」
「結婚します」
今度は光が黙った。疑わしげに葵を見る。

「……ほんま？」
「うん」
「ほんまにほんま？」
「うん」
「ほんまにほんまにほ……」
「光と結婚します。したいの」

ようやく本気が伝わったらしく、光の目が嬉しげに細まる。葵の手のひらに彼が乗せたのは、誰にでもわかるベルベットの箱だった。

うそ。
降ってわいた結婚話だ。急に用意できるわけが。

「俺らと別行動とったのはそういうわけか」
銀がふふんと解説者のように言う。
「親父、一緒に行ったくせに。そうならそうと」
鉄の文句に鋼は腕組みしてそっぽを向く。
「おりゃあトラックの中で待ってただけだ。えらいハイカラな店構えだったが、看板も読めねえし、何しにいったかなんてわかるもんか」

どうやら現場用のトラックを光が運転していったらしい。
宝石店に？　すごいミスマッチだ。

「カメさんの妹さん、ジュエリーデザイナーやろ？　旦那さんと昨日意気投合して連絡先もろうとったから、頼み込んだんや」

碧みどり　夫婦のことだろうが、驚いている葵は思考も体も停止状態で目だけが箱と光を往復する。しびれをきらせた光は自ら箱を開けて見せた。小さな煌めきにおおっと漏れる感嘆。

「ダイヤ、だよな？」
「鉄でもわかるダイヤか」
「それを言うなら親父でもわかるダイヤだって」
「馬鹿にするな、ルビーとかサファイアとかトルコ石とか」
「トルコ石なんてあったっけ」

「うるさいよ、何遍言ったらわかるんだいあんたたちは」

外野の騒ぎは葵の耳を素通りする。確かにダイヤはありふれているけれど、葵は四月生まれだ。光だから偶然なわけはない。

「誕生日、言ったことあった？」
「さすが親父さんやな、生年月日フルで即答してくれはった」
びっくりして父を見るとムッとした顔でまた眼をそらす。
「おめえは俺の初子だ。あったりめえだろ」
頬が赤い。葵の胸が温かな気持ちで満ちる。

「ええから、手ぇ。はよう」
台座から指輪をはずした光は葵の左手を取り、薬指にはめた。
指輪はするっと滑るように、じゃなくて、滑りすぎる。

「……大きい」
「まぬけだな」
「マジかよ」
「思ったより細いねんなあ、葵の指」
兄弟の突っ込みに困った風もなく、光は答える。

「女性に指輪あつらえるんは初めてやから。指のサイズ聞かれてもようわからんで、かんにん。あとで調整してくれはるて」

言葉とは裏腹に、光の目は葵の指に吸いついて顔はにやけている。
ゆるゆるの指輪を葵もみつめた。


直哉には指輪はもらわなかった。葵がまだ幼かったし、家族ぐるみのつきあいでそういう形を誰も気にしなかった。だから葵にとっては正真正銘、男性から初めてもらう指輪だ。エンゲージリング。光が勢いづいてしゃべっている。

「いくつか候補があったんやけど、ひとめ見て俺はこれがええ思うて。なんやこう、キリッとしとるけど柔らかい感じもあるんが葵に似合うなぁて。碧さんも絶対似合うて太鼓判やったし」

手元をみつめたままの葵に気づいてあわてたように口調が変わる。

「そんでも気に入らんかったら代えてくれるで？　サイズをあわせるんはもちろん、葵が自分で選びたいんやったら」
「これがいい」
「ん？」
言葉は勝手にこぼれていた。涙も。

「これがいい」

さっきの涙がダムのひび割れなら今は決壊だ。ぼろぼろと流れ始めた涙が止まらない。指輪を濡らしたくないから左手が使えず、ハンカチを探してもどこへいったんだかわからず、子どもみたいに右手の甲で目を拭い鼻をすする自分。情けなくて嬉しくて。

みっともない顔に違いないけれど、でも言わなきゃ。
大事な人に大事なことを。
光の顔を見たいのに涙が邪魔する。

「ありがと、嬉し、っ」

言葉も涙に呑み込まれる。必死で笑おうとしてるのにああもう。なんとか言葉を絞り出そうとする葵の顔が光の胸に押しつけられた。シャツが濡れちゃうと言いかけて、どっくんどっくん激しく鳴っている鼓動に気づく。ほーっと大きなため息が聞こえる。

「おおきに」

なんだ。
光も緊張してたんだ。教えてくれれば良かったのに。
悔しさと嬉しさでシャツに涙をこすりつけたら、光がまた囁いた。
「でな、ちっと相談」

くっついたままごにょごにょとやっていたら抗議が飛ぶ。
「おまえら、親の前でいい加減にしろ見てらんねえぞ、って、おぉい」

父の声が裏返ったのは、葵が光と立ち上がり、ふたりで他の四人に向き合うよう座り直したからだ。

「お父さん」
「お、おう」
「銀、鉄」
「ああ」
「うん」
「おばあちゃん」
「あいよ」

彼の右手と指輪をした葵の左手が高く掲げられ、指輪が光る。
「俺たちは」
「私たちは」

「結婚します」

さっきの葵のぼやきが聞こえたみたいな光の提案だった。
気が合うのか、どっちも馬鹿なのか。

馬鹿よねと思う。馬鹿だなぁと思う。
馬鹿でいいやと思ってしまった。
百歳になっても笑えるプロポーズなんて、馬鹿だけど素敵だもの。

腕組みして唸っていた父は祖母に横からつつかれてようやく叫んだ。
「あぁ畜生、わかったよ、もってけ泥棒！」
「やった」
「やれやれ」
「手間のかかる親子だね全く」

銀鉄と祖母が安心したように顔を見合わせる。とたんに鋼が立ち上がったので全員がぎょっとして身構えたが。
「けえるぞ、おめえら」
呼びかけは葵と光も含んでいる。

「なんだよ慌ただしい」
「ここで酒盛りはできねえだろ。飲まなきゃやってらんねえよっ」
どたどたと玄関に飛び降りる父に、銀鉄がしょうがないと腰を上げ、葵と光を促した。

「覚悟しろよ。ありゃ飲むぞ」
「また？」
「うわ」
天を仰いだ二人だが、こればかりは諦めるしかなさそうだ。

「おばあちゃんは？」
「やけ酒につきあっちゃいらんない。日を改めるよ。葵、おめでとう。良かったね。源さん」
「はいっ」

声音が変わった祖母に光が背筋を伸ばす。玄関横で座り直した祖母はすらりと両手を前に付き、辰巳芸者だった昔を思わせる美しいお辞儀を見せた。

「孫をよろしく頼みますよ」
「おばあちゃん」
葵の涙腺がまた緩みそうになる。

「こちらこそ、たぶん末永いお付き合いになりそうなんで」
言いながら銀鉄兄弟をチラッと見て光は笑った。
「楽しみだねえ」
祖母も笑う。

葵は幸せだった。幸せすぎて不安になりそうだ。
現実かしら。また夢だったらどうしよう。
ううん大丈夫。
ちゃんと指輪があるもの。

プロポーズの証し、光のくれた指輪を落とさないよう握りしめる左手。
そのゆるゆる感が妙に光らしくて、二重の意味で葵をホッとさせる。



その後、日高家での酒盛りは延々と続き、午前様で実家へ戻った光は翌朝、前日の葵にも負けぬ二日酔いで出勤する羽目となった。