どうしたらいいんだろう。

祖母の家に現れた光を見て、滅多にないことだが葵は途方に暮れていた。同時に苛立ってもいた。光にはもちろんだが大方は自分に対して。

昔気質の家や地域にすみ慣わしていなかったとしても、よしんば婚約解消という憂き目を見なかったとしても、やっぱり結婚が人生の一大事なのは誰だって認めることだ。

その一大事を決めたというのに、覚えてないとはどういうわけか。親友の結婚に感動し感激して飲み過ぎたといえ、そこまで前後不覚になった自分が信じられない。

父や弟に言い訳も説明も出来ない焦れったさ。なのに光ときたら事態を収拾するどころか余計にひっくり返してややこしくする始末だ。何考えてるんだろう、ほんとに信じられない。


『葵と結婚します』

してください、でもなければさせてください、でもない。します？　まるで宣言。いっそのこと家族の前で高校野球の選手みたいにふたりそろって宣誓すればよかった。『私たちは結婚します』とか。それなら少なくとも二人同意の上だ。これじゃただの一人勝手、独断専行の勝手気ままじゃないの。


実家を飛び出してタクシーに乗り込んだ葵は憤懣ふんまん　やるかたなかったが、誰かに訴えようにも親友は新婚ほやほや、甘いハネムーンに旅立ったばかりだ。愚痴る相手は祖母しか思いつかず、祖母が暮らす父の妹、葵にとっては叔母夫婦の家まで駆けつけたのだが。

頭に血が上っていたのを悔やむ。祖母は孫たちをかわいがるが甘やかさない。話は聞いてくれるけれど態度は中立だ。おまけに隠したい内心をぐさぐさと突くことに躊躇がない。

「プロポーズされてないことに怒ってるんだろ。宣言されたことじゃなくて」

女の味方は女でしょと叫びたかった。でも。女の敵も女という。祖母が敵でないのは葵にだってよくわかっているが、図星をさされまくりでどうしろというのか。

「順序踏んでもダメなときはダメだ」

手厳しい言葉も祖母だからこそ。わかってる。それでもと言いたい。
ちょっとは猶予をくれてもいいんじゃないかと。


光とのつきあいはまだ短い。これまで結婚の予感はあってもあくまで予感で現実的な話は何一つしていなかった。降ってわいたような結婚話は葵に言わせれば青天の霹靂なのに。

光の馬鹿馬鹿。
すっとこどっこいの唐変木のおたんこなす。

真打ち登場とばかりにひょうひょうと現れた相手は、葵が心中で思いつく限りの罵倒を並べているとは思っていまい。勘はいいいから察するかもしれないが、光は罵倒を愛情表現と受け取るどうしようもないところがある。女にとって見抜かれるほど嫌なことはない。

そうだ、見抜かれている。暴走列車に引きずられるような展開についていけず、へそを曲げて拗ねているけれど、だからって光を嫌うはずがないってことも。

『好きやんなあ？』

馬鹿。源氏ボタルが聞いて呆れる。確かめなきゃわかんないなら結婚宣言なんかしないでよね。正拳突きを百連打お見舞いしてやれば良かった。


「あれ？　どないしたんやろ」

祖母の部屋に上がろうとした光は思い出したように後ろを振り返り、玄関外へ戻った。きょとんとする間にまた取って返した彼の手は、あろうことか嫌がる父の腕をつかんでいる。

「お、っとうさん？」
「こりゃ珍しい」

銀鉄は知っていたのかどうか、安堵した顔は危ぶんでいたのだろう。何を？　決まり悪げに葵や祖母から目を逸らしながら、鋼は光の手を振り払い、ついでにつかまれた部分をさする。

「こいつ、優男やさおとこ　かと思ったらとんでもねえ。ものすごい力でひきずりやがる。つかんだら離さねえすっぽんみたいだ」
「そないにほめてもろうたら照れますて」
「「「ほめてないっ」」」
鋼銀鉄がトリオではもると祖母が吹き出す。

「なんだい、とっくに仲良しこよしかい？」
「「「そうじゃねえって」」」

意図なくまたハモるから葵まで笑いそうになるが、気力が足りないので情けない笑顔だろうと自分で思う。娘の表情をどう見て取ったのか、観念したように鋼はつっかけただけの下駄をぬぐと祖母の部屋に上がり込んだ。

「来ちまったんだからしょうがねえ、邪魔するぞ」
「威張ってんじゃないよひとんちで」

父は祖母の横で胡座をかいた。銀鉄はその向かいに座り、間に祖母と葵という図だ。玄関から部屋に上がった光は、ほかの者には目もくれずに葵の前に座るといきなり頭を下げた。

「かんにん！」
「へ？」
「おや」
「「「おいっ」」」

面白がるキヌとあわてる男たちをよそに葵はポカンとした。
わけがわからなくて。

「なんや調子に乗ってもうて、葵の承諾も得んと結婚宣言したんは悪かった。かんにん」
「えっと」
「葵が怒るんも当然や」
「そ、れは」
「反省したわ。せやから取り消そ」

あまりにもあっさりと言われたひと言が葵を揺さぶった。
取り消す？　どうして。
違う、嫌だったんじゃなくて、ほんとは。

「取り消してもっぺん……葵？　待て、ちょうまって、うわうわなんで」

余裕でしゃべって見えた光が焦りまくっている。どうしたんだろう。その顔がゆがんでいく。違う、涙だ。私、泣いてる？　やだ。昨日の結婚式だって泣かなかったのに。

どんっと踏み出す三つの足音。
「この野郎、葵を泣かせたな」
「勝手なことばっかし言いやがって」
「許せねえ、表へ出ろ」

父と弟たちの怒号が響く。
違う違う、そうじゃなくて。

「静かにおし！　あぁうるさいね日高の男は！　まとまる話もぱーになっちまうよそれじゃ！」

鶴の一声ならぬキヌの一声で騒然とした場がまたと静まった。その間中、光は周囲を一顧いっこ　だにせず、おろおろしながら葵に声をかけ続けている。

「なあかんにん、泣かんといて、泣いたらあかんて」
「……って」
「うん？」
「だっ、て、とりけ、すって」
皺の寄った光の眉間がほっとゆるむ。

「ちゃうて、俺が言おうとしたんは」
言葉を切った光はすうと息を吸って座り直すと葵を見据えた。

「日高、葵さん」
「は、い？」

「俺の嫁はんになってください」


驚きすぎて涙も止まった。