「なに考えてんのよあの男は信じられない豆腐を百丁投げてやれば良かった今からでも買ってこようかしら」

葵の愚痴はここを訪れてからずっと留まることをしらない。

「でなきゃ机でも柱でもぶつかっちゃえばいいんだわバカバカバカ」
「あとの二つはたんこぶまぬがれないねえ」
「コンクリートブロックとか自転車とか自動車とか」
「死亡事故かい」

「断崖絶壁で後ろから跳び蹴りして」
「二時間ドラマの始まり始まり〜」
「おばあちゃん、面白がらないで！」
「おおこわ」

楽しげに合いの手を入れていたキヌは、眉をつり上げた葵の形相に思わず身を縮めた。だが笑みはごまかせない。キヌにすれば嬉しくてしょうがないのだ。

婚約破棄以来、葵はずっと仕事一筋で浮いた噂のかけらもなかった。それが突然現れるなり、プロポーズもされてないのに彼が家族へ結婚宣言したと怒ること怒ること。これを笑わずしてなんとする。

「腹減ってるからカリカリすんだよ、お食べ」
「どういう意味よ」

今日はどこまでも絡むつもりらしい。蒸し暑い日だからとっておきの水羊羹みずようかん　に熱いほうじ茶を出してやったのに、怒りのやり場がないのか水羊羹を黒文字で切り刻んでいる。皿の上の無残なこと。人間でいえばスプラッタ状態だ。

いつもの葵ならまずやらない子どもじみた仕草だし、いつものキヌならお行儀が悪いと一喝するところだが、しょうがないかと大目に見る。もっとも大目に見るのはそれだけで、葵の本心に知らんぷりをしてやるつもりはない。

「つまりあれだね」
「どれよ」
「あんたはその、なんつったっけ、電球男」
「光よ。源みなもと　光ひかり　」
「そうそう、源氏ボタル」

「おばあちゃんたら」
「そのホタルが好きなんだね」
「……どうしてそうなるの」
「プロポーズされてないことに怒ってるんだろ。宣言されたことじゃなくて」

むぐっと黙った葵が決まり悪げに目を逸らす。ごまかすつもりだろうか、スプラッタ羊羹をひとつひとつ、黒文字で突き刺しては口に放り込んでいく。拗ねた子どもだ。こんな葵をいつ見ただろうとキヌは思う。

母親が亡くなったあと一足飛びに大人になってしまった葵に、こんな面が残っていたとは驚きだ。しまいこんで頑張ってきたのだろう。それを引き出してくれたのが彼氏なら、電球でもホタルでも葵にとってはまさに「光」ではないか。


「ほら言っちまいな。今朝も朝帰りしたくらいだ。その彼氏を嫌いじゃないんだろ」
「それと結婚はまた別の話でしょ」
「ゆうべ家に結婚するって電話したのはあんたなんだろ」

「覚えてないんだもの」
「覚えてなくたってあんたはあんただ。ほんとに結婚が嫌だったら電話なんかするかね」
「そりゃそうだけど」
どうみても旗色悪いのに葵は小声でぶつぶつ抵抗を続ける。

「鉄と銀が言うにはハンサムで仕事ができる。妹さんが言うには家族も大事にしてる」
「妹さんって」
「鉄の彼女、その人の妹だって言うじゃないか」

葵が思うよりも多くの情報を、キヌは鉄と乙女からとっくに得ていた。

「できすぎなくらいじゃないか。それともどっか問題あるのかい」
「ないわよ、ないけど、結婚よ？　こんな降ってわいた災難みたいにじゃなくて、ちゃんと順序を」
「順序踏んでもダメなときはダメだ」

祖母の言い方は優しかったが、葵はひるんだように唇をかんだ。

「大事なのは形じゃなくて中身だ。葵。あんたの気持ちはどうなんだい」

とうとう突き刺す羊羹もなくなったというのに、葵は空っぽのお皿をなおも黒文字でつついている。うつむいたその頬がほんのり染まっているのをキヌは見逃さなかった。

「肝心なときは素直におなり。一等大事な人ならなおさらだ」

言い聞かせながらも、上目遣いの目つきと尖らせた唇を見てキヌはやっぱり笑ってしまう。なんだいなんだい可愛いねぇ。そんな顔を今までどこにしまってたんだよ。切なくもなった。見せる相手がいなかった顔、その相手がようやく見つかったというのに何やってんだか。焦れてくる。

「あんたにしちゃ気が利かないね。どうして連れてこなかったんだよ」

キヌの声が聞こえたみたいに、ガラッと表の戸が開いて、大きな声が飛び込んできた。


「ばあちゃん？　やった、靴がある。銀ー、いたぞーっ！」

鉄の大声は鋼ゆずりだ。おそらく性格も。彼女に愛想尽かされなきゃいいけどねぇとそっちも案じるキヌだが、外見に似合わずあの娘は肝が据わっているからと取り越し苦労をやめる。まずは姉と兄が先だ。

「うるさいよ、鉄。人様の家にまできて怒鳴るんじゃないよ」
「だってさあ、あれ、叔父さんたちは」
「夫婦で出かけてる。子どもたちもね」

ちょうどよかった。鋼の妹夫婦は兄の子供たちも可愛がってくれるが、どちらかといえば静かな性格だからこんな騒ぎには目を回してしまうに違いない。

「葵が悪いんだって。いきなり飛び出しちまうんだから、心配するだろ」
「あたしのせいじゃないわよ」
「連帯責任だと思うけど」

冷静につっこみながら銀も現れた。その後に続くと期待された人物は、しかしいない。聞きたそうなのに聞かない葵に代わって、キヌが尋ねる。

「源氏ボタルはどうしたんだい」
「ホタルぅ？」
「さあね。諦めたとか」

素っ頓狂な声の次男を後目に、キヌの呼び方をスルーした長男の台詞で葵の顔がひきつった。単純な鉄に比べて銀の物言いはいつも腹に一物抱えた感じだ。あれの相手は乙女の姉で源氏ボタルのやっぱり妹だと言うが、太刀打ちできるんだろうか。次から次とにぎやかだねえとキヌには楽しいヒトゴトだ。


「いい勘してるね。ここがすぐわかったのかい」
「勘がいいのは電球野郎だよ」
鉄が悔しそうに言った。

「こういうとき、女は女同士なんだとさ。でも葵の親友は昨日結婚してハネムーンに行っちまった。タクシーに乗ったからご近所に駆け込んでもない。ほかに親しい女性は誰だって聞かれてさ」
「言われなくてもわかりそうなもんだ。俺たちもどうかしてる」
銀の声まで悔しげだ。なるほど、葵の相手は確かに頭のいい男らしい。

「なのになんでいないんだい」

顔を見合わせた銀鉄がしらっとそっぽを向いた。わざとらしく。
「さあ」
「さーね」

駆け回らされた姉への意趣返しもあったろう。それでなくとも日高の家は夕べから大騒ぎだったらしいし。次第に苛立ち始めた葵に、鉄が言う。

「あいつ、勝手に結婚宣言なんかしてたけど、断るよな？」
「え」
「嫌なんだろ？　だから怒って逃げたんだろ？　ならすることないって」
「えっと、その」
葵が口ごもる間に銀が鉄に突っ込む。

「いいのか。おまえも破談になりかねないぞ」
「それとこれとは別だって」
「どっち転んでもあいつが兄貴かよ」
「人のこと言えねえって。銀だって」
「俺はまだ」
「まだ、ってことは」
「鉄、おまえね」

こりゃこの二人も遠からずだねとキヌが心中笑った時、しびれを切らしたように葵が怒鳴った。今日の葵は大声ばかりだと呆れる。


「銀！　鉄！　知ってるんでしょ、光はどこいったの？」

「すんませんーお邪魔しますう」

まるで芝居のようなとぼけた関西風の言葉。
キヌが初めて聞く声に、銀鉄が相次いで応える。

「こっちこっち」
「遅いぞ」
「かんにん、お待たせ」
ためらいもせずに足音は近づき、玄関脇のキヌの部屋の境のふすまがスっと開けられた。

「葵、みぃつけた」

眼鏡の奥で葵を認めた眼は悪戯っぽく笑みを含んで輝いている。
こりゃハンサムだ。
孫娘の彼を値踏みしながら、キヌはほうとため息を押し殺す。


周囲の視線をよそに、葵と光の間は新たな緊張感が張り詰めていた。