日高家は静まりかえっていた。

おなじみのちゃぶ台を挟んで葵の父・鋼、左右に銀鉄の兄弟を前にした光は、隣に葵がいなければへへーっと這いつくばるところだ。もしくは賽銭を上げてぱんぱんと柏手を鳴らすか。いずれにしろ居心地はすこぶる悪い。


初めてここを訪れた時も似たようなシチュエイションだったなと振り返る。似てはいるがマシだった。仕事絡みのパーティーから社長の命で葵を送り届けた夜。葵に対して下心はあっても下心だけだったから、詰め寄られても平然としていられた。今日はそういうわけにはいかない。

元々、日高家の男たちは口数が多い。おまけに喧嘩っぱやい。
「静かなのは食卓で手を合わせた瞬間と、寝ている夜中ぐらいよ」
いつだか葵が言ったせりふだ。

要するに日曜の真っ昼間、全員が集まっているのに物音一つしないのは一大事。椿事だ。事件だ。

「天変地異か」

光のつぶやきにその場にいた全員がぱっと反応した。
おおむね明後日あさって　の方向で。

「てっぺんかけたか？」
鋼がどら声で言った言葉に聞き覚えがあった。たぶん父に聞いたんだと思う。ほととぎすの鳴き声だったか。

「ドッペルゲンガー？」
鉄ときたらぶっ飛び過ぎだ。分身って誰の？　鋼銀鉄の誰であろうと増えてほしくはない。葵なら別だが。

「どってんかいめい？」
これは銀だ。察するに水金地火木の続きだろう。昔習った覚えがある。さすが理系と言いたいところだが、耳で聞くだけだとドッペルゲンガーと大差ない。海王星と冥王星の順番は合ってるのか。それよりなにより。

ひとりもちゃんと聞き取っとらんのはどういうわけや。


「天変地異？　光ったら何言ってるの」

隣からのささやきにすがりつきたくなった。やっぱり頼りは葵や。嫁さんだけある……あかん、それやそこやと失念していた問題を思い出した。どうやら思考が逃避したがっている。

今の時代、一生一度とは言わなくとも、何度もあるはずのない結婚話、それも葵というベタ惚れしている彼女との決定打を、どうして自分が覚えてないのか。自分だけじゃなくて彼女まで全く記憶にないときている。

それぞれの親からの携帯にそれぞれがびっくり仰天して、取る物も取りあえずホテルをチェックアウトしたはいいが、どっちへ向かうか、それとも別行動するかで迷った。

とにかくめいめい家に帰って間違いだと説明しようと言う葵に対し、光が日高家へ一緒に行くと主張したのはひとりで家に帰りたくなかったのもあるし、小町は怒るどころか狂喜乱舞していたのでしばらく放っておいても害はないと判断したせいもある。

なんでこんなことになったのか。夢なら見た。夢だと思っていた。現実だとしたら、夕べふたりで何をやらかしたのか。タクシーに乗り込んだ後もああだこうだとふたりで言い合ったが、覚えてないのだからラチはあかない。とにかくと葵は説いた。

「酔ったあげくの勘違い、間違いっだって説明すれば大丈夫。うちの父も銀も鉄も酒の席での大言壮語は日常茶飯事なんだから、いざとなったら古傷をいやというほど並べてやるわ」

一家の主婦はこう言う時強い。うちなら差し詰め初音か乙女か。江戸っ子の酒は尋常じゃないというからなんとかなるか、と少しだけ安堵して乗り込んだのだが、改めて三人を前にすると光は自分の見通しの甘さというか、心得違いを感じざるを得なかった。


「雁首そろえてやって来たなら、訳の分からんことをぶつぶつ言う前に、まず言わにゃならんことがあるだろうが」

再び鋼が、銀が鉄が、厳しく光を見据える。大事な娘に姉におまえはどういうつもりだと、どうするつもりだと、男として親として兄弟としての庇護意識があからさまだ。もしここで、ゆうべの騒ぎは酔っぱらった勢いで覚えてもいませんなどと言おうものなら、どうなる？

確かに双方覚えていないのだから相身互い、不問になるかもしれない。だがその後は？　自分に対して好感を持つわけもない。それが気になるのは何故か。光は自分の内心をよくよくのぞき込んだ。

小町に電話で結婚と言われてあわてたし驚いたし焦った。だがそこで嫌だとかごめんだとかとんでもないとか、否定とか嫌悪とかは浮かばなかったと思い至り、驚きで瞬きを繰り返す。光の顔をにらんでいた鋼銀鉄が目を見開き、隣の葵ものぞきこんでくるが、それどころじゃない。


丈と美羽は似合いだった。昨日の結婚式は感動的で、ずっと恋愛や結婚にシニカルな見方しかしていなかった光でも悪くないなと思った。恋愛も結婚も相手次第ということか。その相手が葵だったら考える。そういう熱や願望や希望が、本音が、酔った勢いで飛び出したのだろうか。

重要なのは願望や希望が自分だけではなかったらしいことだ。覚えてないのはまどろっこしくて不確かで不安だが、日高家へ電話をかけたのは葵本人らしいから、酔った勢いはあったにしろ葵も光の提案に賛同したはずだ。

葵の顔をじっと見る。
「せやろ？」
「え？」
「せやな」
自問自答で構わない。ひょうたんから駒のことわざもある。チャンスの神様は前髪しかないともいう。

「おい、電球！　黙ってねえで何とかいえっ」
とうとう電球だ。せめてＬＥＤにして欲しい。二十年でも三十年でもいつまでだって光ってやるから、葵の心で。

「お父さん、怒鳴らないで」
「おめえもおめえだ葵！　電話一本で結婚しようだなんて親をバカにするにもほどがある。そんなだから」

「葵と結婚します」

前置きも呼びかけもなく飛び出した宣言に、空気がぱたりと止まり、再び全員の視線が光に集まった。言ってもうたと背筋を冷や汗が流れる。

「な、んだってえ」

鋼がかろうじてうめく。狛犬よろしく、銀と鉄が両側から父親に添いながら今にも襲いかかってきそうだ。慣れない正座で指先からふくらはぎへじわじわと這いあがってくるしびれを感じながら、光は繰り返した。

「俺の嫁はんにもらいます。よろしゅうに」

下げた頭に降った最初の怒号は鉄だった。
「よろしくなんぞできるか、ばかやろう！　なんでおまえなんかに」
「へえ、同じせりふを乙女の時までとっとこか、兄貴として」

うぐっと鉄の顔が赤くなって青くなった。ざまあみろと思いながらも、末の妹の鬼の形相が目に浮かぶ。あっちの方がよっぽど怖い。

「おい、なんであの跳ねっ返りの名前が出てくるんだ……兄貴？　ありゃ電球野郎の妹か？　聞いてないぞおりゃあ」
「父ちゃん、そっちはあとで」
「あとだと？　どいつもこいつも」
「結婚だぞ。いくらなんでも非常識のそしりは免れないだろう、夕べのあれは」
父や弟を尻目に長男が冷静に突っ込んでくれる。もちろん返り討ちだ。

「人間勢いも大切や。あんたも常識に縛られすぎて初音をとりにがさんような」
鼻白んだ銀の顔はあまり見たことがなくて溜飲が下がった。そこにまた鋼が割り込む。

「まてまてまて、初音ってなぁどこの誰だ？　まさか銀、おめえまで」
「うるせぇぞ親父、今は俺たちの話じゃないだろう」
「そ、そうだよ葵の」
「せやから葵は」
「ばっかやろう、最初っから」

「いい加減にしてっ！」

響きわたった大音声に大の男四人が文字通り吹っ飛んだ。うわっと気圧された光は足のしびれもあって尻餅をついた。鋼も銀も鉄もその場でのけぞって、かろうじてついた後ろ手で体を支える始末。皆が見上げるそこで葵は仁王立ちしている。

「なんなのよ、あんたたちは。誰も彼も好き放題。父さんや銀や鉄はともかく。光！」
「はいな！」

うわと立ち上がって背筋が伸びる。うちの嫁はんの怖さを再認識だ。

「どういうつもりよ、説明は？　言い訳は？　何考えてんのっ」
「かんにん、その、やっぱり結婚したいなぁて」
「だからってここで宣言する？」
「その方が早いかなぁて」
「私の意志は？」
「へ？　葵、俺のこと嫌いやってん？　嘘や、好きやろ？」

青くなりながら真顔で聞いてしまった。真っ赤になった葵がわなわなと唇を震わせたあげく、繰り出したのは幻の右ストレート、じゃなくて力一杯の張り手だった。

「ひかりのばかぁああっ」
「いったあっ！」
「葵？」
「どこいくんだ葵！」

頬が横を向くほどの勢いではたかれ、ついでに背中をぶつけてひっくりかえった光は、銀鉄のあわてた声とばたばたと遠ざかる足音をぼんやり聞いた。左頬をなでながらようよう起きあがると、ちゃぶ台の前で唖然と座っている鋼と顔をつきあわせる。

「……どうなってんだ。おまえら、結婚するんじゃなかったのか」
「阻止ししたかったんなら希望通りやし」
「俺はただ、物事には順序ってものがあるってことを」

おやと気づいた。鋼の怒りは結婚そのものではなく、花嫁の父をすっ飛ばされたことへの怒りだったらしい。娘を持つ父親はどこもこんなに複雑怪奇なんだろうか。

どちらともなくがっくり肩を落としたふたりのため息がシンクロする。葵の真っ赤に怒った顔が脳裏に張り付いている。作戦を誤った。それこそ順番間違えた。葵はどこへ行ったんだろう。

「畜生、タクシーで逃げられた」
「ってなんであんた、追いかけないで腕組みしてんだよ」

もどってきた銀鉄のきつい視線も葵を思えば怖くも何ともない。
ぎろっと見返しながら、光は早くもリベンジを期していた。