夕花と若菜は陸橋のそばから路地を抜け、近隣でも桜道として知られる並木へたどり着いていた。ひと目見るなり若菜の手を振りきって夕花が駆けだしたのも無理はない。若菜だってそこに立ち止まってしばらく動けなかったほどだ。

桜道は長くない、せいぜい１０メートルほどの長さに二筋、トンネルを作っている。誰がどうしてこんなところに桜を植えたのか若菜には見当もつかなかったが、それが昨日今日でないことぐらいは察しがついた。

桜は互いに競いあって枝は天を支えるように広がり咲き乱れる花は王冠を飾る宝石のよう。少し出てきた風に誘われ一輪また一輪と枝を離れた花がゆらゆらと風に舞う。夢のような光景だ。あちこちの桜の名所のように、人が集って宴会をしていないのが信じられない。

こんな風にただ景色を美しいと見たのはいつだろう。もう何年も、直哉しか気にしたことはなかった。世界は、少なくとも若菜の世界は彼を中心に回っていた。いつだって花のつぼみより彼の表情の方が気になった。誰にいわれたわけでもない、そうしたかったから。それでも。


携帯が着メロを鳴らした。カーペンターズの「スーパースター」は見るまでもない、直哉だ。彼からの電話に若菜が出なかったことはないが、今だけはためらわれた。まだ、まだだめ。彼の望みをかなえてからでなきゃ。

困っているうちに携帯は黙り込んだが、若菜にすべきことを思い出させた。なんのために夕花を連れ出したのか。喜々として桜を拾い続けている夕花のところへ、若菜は駆け寄った。満面の笑みが彼女を迎える。

「ねーちゃ、しゃくら、いっぱーっ」
「夕花ちゃん、私がママになるから」
「ママー？」
きょとんと眼を丸くした夕花がぱっと立ち上がる。

「ママどこー？」
「ここよ、私がママ」
ぶんと夕花は首をふった。
「ねーちゃはママじゃないもん」

断固としたゆるぎない主張。正しいだけに一筋縄ではいくまい。若菜の顔が険しくなる。桜並木に似つかわしくない危うい雰囲気が漂いかけた時だ。

「ゆうかー!?」

腹の底から絞り出されるような声が桜並木を貫いた。誰の声と判断もつかないのに頭のてっぺんからつま先まで、若菜の体が身震いした。





初音が息を切らして走り込んだ公園は住宅街に囲まれていた。広いというほどではないが狭いというほどでもない。子供をねらった事件が続いた頃に、見通しを確保しようと遊具や立木はずいぶん減らされたが、それでも入り口から全体を見渡すのは不可能だ。もどかしげに小走りで探していたら聞き覚えのある声に足が止まった。

「ゆうかー、ゆうかっ、どこなのーっ？」
「桐姉？」

いつみても落ち着いていて穏やかな笑みを浮かべている姉が、結婚式から戻ったそのまま、華やかなツーピースと整えてあったはずの髪も乱して、がむしゃらに娘を求める姿。

初音はみぞおちを突かれたような痛みを覚えた。ぐっと下唇をかんで自分を戒め、姉のところへ駆け寄ろうとしたそこで携帯が鳴った。光だ。

『並木におるぞ』
「ほんとっ？」
『若菜が一緒や。何するかわからん。銀にも知らせてくれ。はよう』
「わかった」

若菜は不気味で安心はできないけれど、少なくとも姉に夕花の居場所を伝えられる。娘の名を呼びながら見えなくなりかけている桐子のところへ、初音は全速力で走り出した。





陸橋にはそれらしいふたりはいなかった。周囲を見回しながら銀はとうとう駅まで来てしまった。探せども母子風の二人は影も形もない。こっちじゃないのか。さっきの地点まで戻ろうと身を翻した銀を、誰かが呼んだ。

「銀？」

葵だった。それはまだしも、どうして直哉まで。駆け寄ってくるふたりに銀は呆然とする。

「見つかった？　夕花ちゃん見つかったの？」
「なんで知ってんだよ」
「ほんとに若菜なのか」
「あんた」
「どこだ、若菜はっ」
「直哉さん、落ち着いて」

胸ぐらをつかんで問いつめようとする直哉。驚きが先立って反応できない銀にあわてて葵が間に入る。追いかけるように鳴り出した音がその場を分けた。銀の携帯だ。あわてて通話ボタンを押すと初音が叫んでいる。

『並木にいるって、道わかる？』
「さっきのとこから兄貴が行った方向だな」
『急いで』
「おい」
聞き返したら切れている。右から左から葵と直哉にかみつかれそうだ。

「みつけたらしい」
「ほんと？」
「若菜もか？」
直哉の口から出た名前に驚いたが、とにかく銀は走りだす。

「場所わかるの」
「一緒に行く」
「なんで。若菜って誰なんだ」

銀の問いに並走しながら直哉は淡々と返した。
「妻だ」
「つ、まあ？」
「いいから銀」

葵に急かされ半ばやけになった銀は、走ることに全力を注いだものの、疑問は膨らむ一方だ。

妻ってことは葵を捨てて逆玉した相手か？　そいつが光の姪っ子を連れ出してる？　なんでこんなややこしいことになってんだ。説明を求めたくても今は無理なのはわかりきっている。蹴りあげるアスファルトがやけに固かった。





「ひーちゃ？」

光の声に夕花はぴんと耳をたてて振り返った。子鹿みたいだなんて関係のないことを思いながら光は突進しようとした。あわてて夕花の手をつかみ引き寄せたのは若菜だ。女の力といえ大人と子供、びっくりした顔で見上げる夕花におかまいなしで叫ぶ彼女。

「こないで、光！」

急ブレーキをかけた自転車よろしくつんのめりながらなんとか光は止まった。夕花と若菜を代わる代わるみつめていると怒りが徐々に強まっていく。

「何のつもりや。なに考えとる」
「何って」
光が知る若菜は決して、非常識な人間ではなかったのに。

「光に関係ないでしょ」
「関係ない？　夕花は桐姉の娘や。俺の大事な姪っ子やぞ！」

思い当たったのは彼女の中に欠落している部分。再会した彼女に感じる違和感の正体。他者に対しての気遣いとか思いやりが皆無だ。いつから？　どうして。

怒りの波を追い越して光の全身を哀しみが浸した。かつて愛したはずの女性があまりにも遠くに感じられる。葵に、わけもなく葵に横に居て欲しかった。



ものすごい勢いで光に怒鳴られ若菜はひるんだ。怒ってる。別れるときの光も怒っていたけれど、それよりずっと怒っているかもしれない。形相が違う。

「わかってるわよ。桐子の娘だから欲しいんじゃないの」
「欲しいて」
「欲しいの、この子が欲しいのよ」
「はあ？」
「この子が私の、彼の夢を叶えてくれるんだから」
光の眉根がさらにねじられ険しさを増していく。

「アホなこと言うとらんではよ、夕花を返し」
「いや」
「あんたいくつや。人の子を勝手に連れ出すんは犯罪やで。わかっとんのか」
眼を丸くした若菜は吹き出した。

「ばか言わないで。夕花ちゃんは私の子に」
「夕花は桐姉の愛娘やっ！」
「ゆーかのママはママだもん！」

向こうからと手元から、声の大小はあったがどちらの抗議も激しかった。手をふりほどこうとする夕花に驚いて、でも若菜は逆に小さな手を握りしめ言い聞かせる。
「大丈夫よ、桐子はきっと私の言うこと」

「ゆうかあーーーっ」

絶叫が響いて光が振り返る。彼の後ろから駆けてくる一団を見て若菜はぎょっとした。桐子。あんな桐子は見たことがない。どこかでみたことのある鬼子母神の絵が浮かぶ。おまけにそのうしろには葵と、あろうことか直哉がいる。どうして。駄目、まだ駄目なのに。


尚もふりほどこうとする夕花の手を固く握りながら、人生で初めて若菜はその場から逃げ出したい衝動にかられていた。