朝寝坊に始まった土曜日は、だらだらするうちに日が暮れようとしていた。キッチン手前の庭が見渡せるソファに寝ころんで、光はぼんやりしている。母は土日も開いているティールームに、初音も仕事で、家には光と晩ご飯の支度をする乙女だけだ。

逢いたい人がいるのに何をやってるんだろうと自嘲する。昼前に葵へ送ったメールはまだ返信がない。予定があると言っていた。相手は誰だろう。強引に聞き出せばよかった。

つい独り言を漏らしていたらしい。火にかけたスープの味見をしながら乙女がこっちを見た。

「不景気な顔でぶつぶつ言うのやめてよね気持ち悪い」

自他ともに認めるブラコンだが、だからといって兄に盲従というわけでもない。容赦なくびしびしと突っ込んでくる。

「わかった、振られたんでしょ」
「誰に向かって言うとんや乙女」
「せっかくの週末に家でゴロゴロしてぶつぶつ言ってる、イケメンと噂のお兄さまに」
「おまえなあ」

舌鋒鋭いのはいつものことだがちょっと尖りすぎだ。光は怪訝な顔になる。キュウリを刻むテンポまでダダダダっとドラム並みだ。

「男なんて誰も彼も」
「まーだ鉄くんと喧嘩しとんのか」

ぴたっとドラムを、いや包丁を止めた乙女がものすごい目つきで光をにらんだ。のけぞりながらすっかり女の眼だなと感心した。あの、小さかった乙女が。

「もとはといえば光のせいじゃない」
「なんで俺のせいなんや」
「光が葵さんとつきあわなきゃ」
「鉄くんと会わんて決めたんは自分やろ」

「光は会ってるくせに」
「いつ俺が逢わんて言うた」
「……ずるい」
泣き出しそうな顔をされると弱い。いつだって困った時は自分に泣きついてきた末っ子だ。

「逢いに行けばええやないか。連絡もろうとるんやろ？」
黙り込んだのは肯定なのか否定なのか。

「乙女」
「だって初音が」
「初音のことは初音が決める。だいたいおまえがつらい思いして初音が喜ぶと思うとるんか」

力任せにだんっとおろした包丁が、半分まで薄切りされたキュウリの残りをまっぷたつにした。乙女が背を向ける。

「あとは光がやれば」
「なんやて、当番は俺やのうて」
「知らないっ」

バンとしまったドアに続いて階段をかけあがる音。完全に怒らせた。ミスったな。ふと寂しさも覚えた。もう泣きついてくる年じゃないってことか。この調子だと初音も荒れてそうだ。

ため息をはいて光は立ち上がった。うだうだ考えるよりは手を動かす方がいい。準備してあるのはスープにサラダ。ピラフでも炊くか。


冷蔵庫をチェックしていたら玄関が騒がしくなった。乙女よりずっと軽いが力強い足音。飛び込んできたのは。

「ひーちゃっ、いるーっ？」
「夕花？　まてまて待ちぃって」

今にも飛びつこうとする夕花を押しとどめ、包丁を置いて手を洗ってから光は姪っ子を抱き上げた。
「よう来たな、また重うなったやないか」
「きゃーっ」

首っ玉にかじりついてくる感触は昔の乙女だ。切なさと愛しさが湧いてくる。抱いたままくるくる回ってやると興奮状態だ。笑いっぱなしでにぎやかこの上ない。

「あらあら、もうひーちゃんに遊んでもらってるの」
振り返ると桐子がおかしそうに笑っていた。

母に似てるとよく言われるが、身内に言わせると母と桐子は全くちがう。ゴージャスと形容される母はその内面にいつも孤独を囲っていて、華やかさがくっきり浮き立つのはそのせいだ。

対して姉の心の芯にあるのはひだまり。暖かで柔らかですべてを受け入れ許してほほえむ、幼い頃から姉に感じていたのは太陽にも似た温もりだったと思う。後ろからもうひとり、珍しい顔がのぞいた。

「光くん、久しぶり」
「義兄さん、ご無沙汰してもうて」
「そりゃこっちの台詞だ。せっかく戻ってきたのになかなか会えなくて悪いね」
「パパー」

夕花を抱きとり、姉の夫、五十嵐いがらし　守がにこっと笑った。無骨で地味な印象だがいざとなると行動派でねばり強い。何より信頼できる。桐子はそこに惹かれたのだろう。

光は彼が好きだった。姉妹に挟まれて男兄弟がいないのが小さい頃からの不満だったのに、大人になってから兄弟が増えるとは。雀といい守といい、姉たちの相手を選ぶ目は自分よりよほど確かだ。大人がしゃべる間に夕花は父親から隣の母親へリレーされている。

「今日は？」
「泊まりよ。小町さんに聞いてない？」
「いや」
「すっかりお言葉に甘えちゃって」
申し訳なさそうに言う守を遮って口を出したのは夕花だ。

「パパとママはあしたー、けっこんするのー」
「……は？」

いやいやいやとっくにしとるやろと突っ込みを入れるべきか。眼を白黒させる光にぶっと吹き出す夫婦。桐子が声を笑いながら説明する。

「守さんのね、大学の同級生の結婚式なの。一緒にどうぞって言ってもらったけど夕花は知らない人ばかりだし。コチママのところにいるって言うから」
「コチママんちにパパとママとお泊ましゅるの。あしたコチママのくゆまで、パパとママはおでかけ。それでぇゆーかはおゆしゅばん」

舌足らずの説明だが解読はさほど難しくない。

「僕の田舎が遠いから世話かけてばかりだね。ここだと夕花はもちろん、僕も桐子も安心なんでつい」
「だっこー」
また手を伸ばしてくる夕花を抱きとりながら、光はこともなげに言った。

「家族やろ。あたりまえや」
「ありがとう、光くん」
「ありがと」
「ほんでも感謝のしるしに晩飯手伝おてくれたら嬉しいわ。もうちょっとなんや」
くるりといたずらっぽく眼を回す光に、桐子が笑む。

「光が当番？」
「乙女なんやけど、へそ曲げてもうて」
「あら」
「じゃあ僕もやろう。夕花が離れそうにないから」

仲良くキッチンへ入る夫婦を見送り、光は夕花を高く抱き上げた。
「今日も明日も、いっぱい遊ぼうな夕花」
「ひーちゃっ、しゅきー！」

よじ登ったあげくに肩車になった夕花が、ようやく届くリーチで光の頭を抱きしめて叫ぶ。かつて乙女がそうだったように。子どもを皆が愛するのは幸せな記憶を再現してくれるからかもしれない。ええもんや。光の胸に沁みいる想いがあった。



乙女の不機嫌は直ったわけではないが、姉夫婦や夕花のおかげで休戦となった。桐子と守と夕花。小町と光と乙女。仕事で遅い初音を待たずににぎやかな夕食を終えると、夕花は威張って宣言した。

「ひーちゃんとお風呂入ってひーちゃんのベッドで寝るのー」

お姫様のご所望とあれば誰もが言いなり、下僕だ。守がしきりに遠慮しようとしたが光は笑い飛ばした。たまには夫婦水入らずもいいだろう。風呂場でも大騒ぎする夕花をなんとか洗って湯船で十まで数える。パジャマに着替えさせると小町が作ったハニーミルクティーを飲んで乙女とおしゃべりして。

寝る前の絵本を楽しみにしていたのに、光のベッドで枕に頭をつけたとたん夕花は寝入ってしまった。瞬間芸だ。寝たフリじゃないかと疑ってしまったがまだそんな技は使えない。子どもの安らかな寝息ほど幸せにさせられる音はないと思う。

みつめながらうとうとしていた光は、ミツバチの羽音に目覚めた。違う、携帯だ。夕花がいるからバイブにしてあった。あわててベッドをぬけだし、振動でテーブルから落ちかけている携帯を拾う。

「もしもし」
『光？　ごめん寝てた？』

この声に耳が心が、焦がれていたと知る。前言撤回だ。何より自分を幸せにしてくれるのはこの声、声の主だ。一日の終わりに聞く彼女の声は、姉がもつひだまりと同じに思えた。





光のメールには昼間、とっくに気づいていた葵だが、若菜の残した動揺が収まらなくてなかなか返信できなかったのだ。

「もしもし？」
『起きとるで』
「よかった」
『ちっとな。客がおるんや』
「お客さん？」
メールを返さなかった罪悪感が薄れ、彼の声に安堵する。客とは誰だろうと思ったそこで。

『ベッドにな』

ざわっと心に鳥肌がたったような。物理的にあり得ないのはわかっているけれど、なめらかな表面が一気に逆立ち棘になる感じをほかにどう言えばいいのやら。

気配ひとつ聞き逃すまいと聴覚を研ぎ澄ます、こんな感覚は知らない。かつて、直哉と別の女性の噂を聞いたときも嫉妬はあったはずだけれど、こんなに明確な敵意は持たなかった気がする。根っこにあるのは紛れもない独占欲。

春も盛りだというのに、通話口から漂っているだろう冷え冷えとした空気に知らんぷりで話し続ける彼。冗談に違いないとわかってるけれど。

『可愛い子ぉやで』
「……ふーん？」
どうせあたしは可愛くないですよ、年上だし。

『ぽちゃぽちゃしてわがままで、そのくせ甘ったれでな』
「そういう子が好きだったの。知らなかった」
そうよ知らなかった。わがままで甘ったれ？　それじゃまるで。

『夕花は特別や』
「特別、ね」
ゆうか。聞いたことのない名前に険しくなる声は隠しようがない。隠す気もない。覚悟しなさい、ほんとだったらこっちから三行半みくだりはん　よ。

身構えた葵に、光の声はほくそえんで聞こえた。
たしかにほくそえんでいただろう。

『そやって初めての姪っ子やし。昔の妹ら思い出して懐かしゅうて。葵はそういうことあらへんか？　ちっさい男の子に弟らのこととか、なあ？』

言葉がパズルのようにシャカシャカと動いてやっと形になった。彼は四人姉妹にはさまれている。姪っ子。そういうわけね、ああもう憎たらしい。つまり。

「からかったのね」
『からかう？　そないなことせえへんで』
「ずるいんだから。ゆうかちゃんていうの？　いくつ？」
『三つや。一番上の桐姉の娘。今度葵にも会わせんとな』
「ほんと？」
『格好ええお兄さんも好きやけど、きれいなお姉さんも大好きやから』
笑いを含んだ光の声が耳に心地いい。と、話題が変わった。

『今日はどないしとってん？』
「知り合いに会ってたの、用事で」
『ふうん』
言うべきかもしれないがまだ言えない。どう言えばいいのかわからない。若菜は結局、何をどうしたかったんだろう。

「メール、返さなくてごめんなさい」
『しゃあないわ。明日ならどない？』
「明日も昼間はちょっと」

『昼間は俺もお姫さまのおもりや。夜な』
「夜？」
『逢いたいし』
ねだられるみたいだけれど、ねだりたいのは自分も同じだ。変に肩肘張らないで素直に求めてくれる彼が嬉しい。

『ええやろ？』
「うん」
自分の声がほほえんでいた。トーンも上がる。

「のんびりしてたら夕花ちゃんにとられちゃうものね」
『そやで。ええ男はしっかり見張っとらんと』
「自分で言う？　しょってるわね」

クスクスと光の笑みが見えるようだ。
『逆やな。ええ女は見張っとらんと不安になる』
ほんとにうまいんだから。

『何時ならええ？』
「そんなに遅くならないと思うわ。夕方なら」

他愛ない話をいつまでもしたいと思う。向こうも同じことを思ってると信じられる。電話を切ったあと眠りにつくまで、葵は微笑みを浮かべていた。

なのに。


夢の中で聞いたのはダン、とフォークを突き刺す音。
その震える振動だった。