同じ週の金曜午後。

会社から客先に出向いた光は直帰するつもりだった。トラブルもなく早めに終わってラッキーと思った矢先、携帯のバイブに眉をひそめる。のぞいた液晶は意外な人物を示していた。滅多にかかってこないプライベート番号に一気に緊張感が高まる。なんだなんだ。

「源です」
「空いてるだろう？　つきあってくれ」
あっけらかんとした声は間違いないが確認したくなる。

「社長？」
「彼女じゃなくて残念だったな」
「いや、着信で一目瞭然やけど」
「なんだつまらん」
「つまらんて」
どういう意味やとはさすがに言いづらい。なんていっても社長だ。

「えーっとその彼女とこれから予定が」
「ないのは確認済みだぞ」
「殺生な」
本音だ。そのとおりだが本人に確認されるなんて情けない。

「つべこべ言わずにつきあえ。社長命令だ」
「うわ横暴」
「社長ってのはそういうものだろうが」

笑いながら言い切る陸見は決して横暴な社長ではない。断れないのは宮仕えだからではなく、光が就職を決めた理由がそもそも陸見という人物にあったから。彼に惚れて入った会社だ。予定がなければ答えは決まっている。

「お供さしますよって」
「最初からそう言え」
「へいへい。いずこに参じまひょ？」

社長と掛け合い漫才ができる幸運を思いながら、陸見の告げる店を光はしっかりと覚え込んだ。





雑誌風に言えば「隠れ家的な」料理屋だった。やり手の独身社長だというのに陸見はあまりクラブやバーに行かない。もちろん接待やつきあいはこなすが望んで行くことはあまりないようだ。周囲からは身を固めろとやんや言われているだろうに、ひょうひょうとしている。そうした余裕がまた女性を引き寄せるようで、降り注ぐ縁談は星の数と聞いている。

いっぺん女性の口説き方を講説してもろうたほうがええかも。我が身に引き替えて光は思った。自分と葵の間にはいろいろな事情が絡み絡んでいるわけだが怯んでばかりもいられない。気持ちにケリをつけるのは結局自分だ。但し慎重に。こじれたらもっとややこしくなる。

出会った時はまさか、葵とこんな風につながりがあるなんて思っても見なかった。若菜を通して。それから。


「お連れ様がお見えです」
「よぉ、急に悪かったな」
「ほんまで……げっ」

案内された個室の引き戸が開くと同時に、光の喉から蛙が跳びだした。理由は陸見の向かいに座る男。四つ木、じゃなくて樫野、直哉。光にとっては諸悪の根元だ。どうしてここに。相手も眼を丸くして状況が飲み込めてない顔なのがせめてもだ。

「どういうことです社長？」
「まあ落ち着け。いいことと悪いこと、どっちが先に聞きたい？」
「は？」
怒り半分、狼狽半分で食ってかかろうとする光を、陸見が悪気なさそうに宥めてくる。舌打ちを呑み込む光に涼しい顔だ。

「どっちだ」
「……ほな、ええことから」
人生に翻弄されてひねくれはしたが、基本的に自分は楽天家だと思うのはこんな時だ。先に聞くのはいいこと。決まってる。


「まず言っておくが、四つ木と私は大学の同窓で当時は親友だった。日高くんにも会っている」
光には初耳だ。驚いた。ここにもそんなつながりがあったとは、つくづく世間は狭い。

「日高君とのいきさつは私がふたりと疎遠にしていた間の事でね。彼の選択と結果を知って以来、非難を轟々ごうごう　と浴びせてきた」
さもありなん。さすが社長だ。光の陸見への評価はさらに高まる。

「まず良いことだが、四つ木がこのところずっと日高くんに会いたがっていて、それを私が断固として阻止していること」
「な、んやて？」
「おい、音おん　」

あわてる直哉をにらみつつ、光の社長評価は今や天まで届きそうだ。ありがたい。葵が陸見の秘書になったのは間違いなく天命だ。

「悪いことというのは、あまりにも四つ木がうるさいんで、私が日高君の代わりに君を生け贄にしたってことだ」
「は？」
「なんだって」

急上昇したら急降下するのが世の習いというわけか。ぽかんとした光が陸見の言葉を理解するにつれて評価は真っ逆様。マイナスや。

「それってつまり？」
「音、話が違うだろう」
今度は直哉の方が食ってかかっているが、陸見はいっさい動じることなく、あろうことか立ち上がってしまう。

「恋愛は当事者同士の問題、というのが私の持論だが、ここまでもつれると当事者だけじゃすむまい。というより当事者だしな、君も」

陸見の言わんとするところは光はもちろん直哉もわかったようだ。

「源」
「はい？」
警戒心にあふれた声音で上目遣いに光は応える。

「私は君を高く買っている。社員としての能力だけでなく、人間をだ」
うわと焦る。こんな状況でなければ感涙ものだ。
「しかし」

しかし？　しかしやて。かなわんわ絶対遊ばれとる。光は確信した。口調や目つきがいかにまじめそうでも、騙されへんぞ。

「君より日高君を買ってるんでね。文句あるかい？」

ぐうの音もでない。文句が言えるわけがない。
ほんまにかなわんなあ。

脱力する光に承諾を読みとった陸見はにやりと笑むと、今度は直哉に向き直る。こっちは光よりも言いたいことがありそうだが。


「というわけだ四つ木」
「どんなわけだって？」
「日高くんに会いたかったら、彼を突破するんだな」
「この男にそんな権利があるのか」
「少なくとも君よりはあるさ」

ざまあみろと思う光とは反対に、直哉の顔があからさまに歪んだ。プライドが傷つけられたような。低く漏れる声。
「音」

「今の君が彼女にあっても同じ事を繰り返しかねない。頭を冷やせってことだ」
「待ってくれ」
「源。君にも言っておく。二度と彼女が傷つけられることがないように」

光はきっと陸見を見上げた。いかに社長だろうと言われたくないことはある。
「そこらの卑怯もんと一緒にせんといてもらえますか」

直哉をにらむと向こうも見据えてきた。ええ度胸やないかこの野郎。
結んだ視線が火花を散らす。

「その調子だ。じゃあな」
はっと振り向くとすでに閉まった引き戸だけ。やられた。


なんやあれ、まるであっちが葵の守護神みたいやないか。
彼氏は誰やっちゅうねん。


お株を奪った守護神にはめられ、親の仇ならぬ彼女の仇とふたりきり。
ため息を殺し覚悟を決めるほか、光に選択肢はなさそうだった。