その病院は地下鉄の最寄り駅から歩いて５分のところにあった。総合病院には独特の雰囲気があると藤尾の昔からの主張だ。

白を基調とした床や壁。混雑する受付と老若男女であふれる待合室。行き交う医師や看護士、スタッフたちは白衣によって患者と一線を画し、彼らを何か仰ぎみるべき存在に思わせる。

患者は白衣に錯覚しがちだ。彼らに頼ればすべての病気に怪我から解放されるとでもような。もちろん錯覚でしかない。病気であろうと怪我であろうと治癒する場合もあればしない場合もある。死に至る人もいれば新たに命を与えられる人もいる。

自分の悩みは命に関わるものではない。家族に愛され好きな人と結婚し仕事も充実している。それでも望むなんて贅沢者と非難されてしまうのかもしれない。


どうして人は足りていることをよそにして、足りないことに執着しこだわってしまうのだろう。八つ当たりのように藤尾が問うと雀はただ笑っていたっけ。



取り出した診察カードを再診用の受付機に入れ、画面に現れた産婦人科の文字に指先で触れる。出てきたカードを手にした藤尾は無意識にほっとため息をはいた。まだ慣れない。

ここへの通院は二度目だ。病院に来るまでに散々悩んだ。何人かに人づてで評判を聞き、もちろんインターネットでも調べたが、結局検査してもらわなければなにも解決しないのはわかりきっていた。


雀と結婚して４年になる。避妊もしていないのに妊娠の兆候は一度もなかった。当初から待ち望んでいたわけではないが、姉・桐子の子どもで姪っ子である夕花を、その成長を目の当たりにして考えは変わった。

姪であんなに可愛いなら我が子だったらどれだけ可愛いか。姪であんなに喜ぶ夫なら、我が子だったらどれほど。


期待して意識するようになっても、一向に妊らない。次第に焦り始めた。「子ども」とか「妊娠」とか「出産」とか、周囲にあふれるただの言葉にやたら敏感になり、基礎体温や排卵日に詳しくなった。生理がくるたびに落ち込み情緒不安定になるので雀にも心配された。


子どもに関して雀はごく自然体だ。恵まれればもちろんうれしいけれど、恵まれないこともある。人は所詮、神様ではないから。

『授かり物だよ。無理しなくても』

藤尾を気遣ってやせ我慢しているのではないと信じているが、一方で雀には家族がいないことが藤尾には気になった。両親を早くになくして兄弟もないという彼が子どもを望まないはずないと思う。

藤尾だってほしい。雀との子どもが欲しくてしょうがない。なら。
そろそろ別の努力を始めなければいけない気がしたのだ。


通院の面倒さにも関わらず、家から離れた病院を選んだのは自分を守りたいという本能だ。たぶん見栄やプライド、そっちの方が大きかったろう。

どこへ行ったって誰かと出くわす可能性は否定できないけれど、地元ではその確率が跳ね上がることは確かだから。近所の顔見知りにあうたび「子どもはまだ？」と聞かれるだけで十分だ。小さく苦笑いしながら藤尾はエスカレーターで三階をめざした。


科別の受付に診察券を出すとあとは待つだけ。評判のいい産婦人科なだけに人はいつもいっぱいだ。もっとも総合病院はどこの科も患者は少なくない。現に産婦人科の隣、耳鼻科の前もいっぱいだ。

今日はどれくらい待つだろう。初診の後は予約を取っているが、完全予約でない以上、混み具合は少しましな程度。仕事の都合もある。午後か土曜日も考えなくてはと頭の隅にメモした。

広い廊下の片側三列、長いすが並べられている。一番後ろの一隅に陣取って、待ち時間を見越してもってきた本を取り出した。昼日中に堂々と本を読めるなんて時間もあまりない。

最近訳されたばかりの数学書に読み潜ろうとした藤尾の意識を、寸前で引き留めたのは聞き覚えのある名前だった。

「若菜。どこにいくの」

わかな。
……若菜？


藤尾の前には耳鼻科の患者だろう、がたいの大きな男性がふたり座っていた。並んだ頭の向こうを若い女性がいきすぎる。ワンピースにハイヒール。病院よりもレストランが似合いそうだ。後ろから呼びかけているのは年輩の、六十代くらいの女性。こちらも上品なスーツ姿だ。

「待ちなさい。せっかく受付したんだから、もうすぐ」
「嫌って言ってるのに。お母様が無理矢理連れてきたんじゃないの」

「嫌なのはわかるけれど女にはリミットがあるのよ。きちんと診ていただいて、何かあっても方法がいろいろ」
「帰ります」
「若菜」

カツカツと歩き去る足音。後ろ姿と受付を交互に見遣った年配の女性は、あわてて受付に断りを言うとあとを追った。それだけならたまにあることと他人事なだけだったが。


先に立った若い女性に藤尾は見覚えがあった。名前も。

ほんとうに彼女だろうか。
何年も顔を見ていないからいまいち自信がない。


「樫野さん。樫野若菜さん？」

受付スタッフが声高にした名前が藤尾の疑問を裏付けした。間違いない。光の元カノだ。先月、実家の店にも現れたと聞いている。今更どうしてと理解に苦しんだ。光のことで彼女に対しては憎悪に近い思いしかない。会いたくもないのに。

たったいま耳にした会話が思ったよりも藤尾を動揺させていた。同じ境遇かもしれないと思うと胸が騒ぐ。再び光に接触してきたことと、それって関係あるの？　まさかね？　あぁもう。自分の悩みだけで手一杯だっていうのに。


人の入り乱れる病院の廊下。
藤尾の心の中も、周囲と同じくらい色々な考えが入り乱れていた。