週半ばだからとほどほどに切り上げた４人は、通りでタクシーを待っていた。その間もにぎやかだ。

「ウサコちゃんまだ間に合うで。こないアホな男はやめて俺にせえへん？」

酔ってもいないのに光の調子はまるで酔っぱらいのたわ言だ。葵は美羽とくすくす笑う。丈が眉をよじらせる。

「いい加減にしろ、源」
「源さんてほんとに丈さんが好きなんですね」
「うわ。なんちゅうことを」
「美羽は巫女さんよ。お見通しなの」
丈が顔までよじらせそうだ。

「バカ、否定しろ。おまえにだけは好かれたくない」
「そない恥ずかしがらんでも、なあウサコちゃん」
「美羽、タクシー来たわよ」
「丈さん押さないで」

ふたりが乗ったタクシーを見送って葵が長いため息をつく。
「なんや当てられ疲れか」
「素人漫才に疲れたのよ」
「へえ、どこでやっとったん」
ぐるりと眼を回す葵に光が笑う。

「で？　タクシー拾わんでええの？」
「……少し歩かない？」
「そらええな」
ためらいながらの誘いだったのにふわりと同意が返って嬉しくなる。こんなことでと思いながらも。広い歩道をゆっくりとそぞろ歩く。

「それにしてもかなわんなあ、あのふたり」
「聞かされる身にもなれってところね」
「カメさんは確信犯やけどウサコちゃんは天然やろ」
「あれじゃどっちも同罪よ」

「うわ、斬った」
「違うでしょ、斬られてるのはこっち」
「もっともや」
どれだけ愚痴ろうと斬ろうと、彼らの幸せを願っている。視線を交わす気持ちは同じだ。

「仕事、忙しいか」
「そうね。年度始めは行事やら異動やら、役員の顔ぶれも変わるから、気を使うわ」
「無理せんようにな」

「あなたこそ忙しいでしょ」
「こっちも年度始めはいろいろな。ようやく一息思うたとたんに、社長はきっつい目標掲げてくれるし」
光のぼやきはよくわかった。社長の意向は誰よりも間近で見聞きしているのだ。

「あなたの力量を買ってるからよ」
「そないなこと言うとった？」
「まさか。でもわかるわ。決まってる」
何気なく言ったら腕をつかまれ抱きよせられて葵は驚いた。



あふれてくる衝動を光は懸命にやりすごした。できるだけ軽口に聞こえるよう声音を抑える。

「優しなあ。葵にそない言うてもらえるやなんて、ものすご幸せやん、俺」
「ちょ、ちょっと、光」
「ええ響きや」
「光ってば。路上で」
そう路上だ。ここで押し倒すわけにはいかない。

「ほなどっかいこ」
「は？」
「ええ言うまではなさんで」
「ば、ちょとま」
もがいていた葵が不意に動きを止めた。聞こえてきたのは軽いバイブ音。携帯か。ちっと舌打ちがでる。葵がまたもがき始める。

「出なきゃ」
「そやってなぁ」
「ひかり」
しぶしぶ手を離すとあわててバッグから携帯を取り出す葵。
「え……？」

首を傾げながらフリップを開く。葵の眼がすっと細くなって背を向けた。肩が動いてすばやく手元を操作しているのがわかる。切った後、背を丸める様子になんだかいやな予感がした。
「葵？　誰やったん」

ぴっと伸びた背中。ふりむいた葵はいつも通りの笑みを浮かべていた、ような気がする。
「銀よ。私はまだかって父さんがうるさいの。悪いけど今日は帰らなきゃ」
予感的中。光はため息になる。

「そら殺生やわ」
「だーめ」
「あおい〜」
葵が苦笑を浮かべる。困らせても駄目か。

「……ほな週末」
「週末も予定が」
「ちょっとだけでも。ええやろ」
「光ったら子どもみたい」

子どもやったらこない発情期の猫みたいな気分にならへんのになぁ。未練のなさそうな葵を恨めしげにみて、それでも光はタクシーを探しに通りへ向かった。残された葵の、携帯を見下ろす緊張した顔には気づかなかった。





「ただいまー」
玄関で靴を脱いでいた光の耳に駆け降りてくる怒濤の足音。飛びついてきたのは乙女だった。

「帰ってきた、光！」
「うわ、なんや」
「葵さんと別れて！」
「はあ？」
「お願い！　初音のためにも！」
「危な、倒れるて」

藪から乙女だ。何のことやら眼が白黒、葵と別れるのがどうして初音のためになるのか、妹を見下ろす光の心中は疑問符だらけだ。

「おい落ち着け、ちゃんと話せえ」
離れない乙女をひきずるようにしてリビングまでどうにか到達した。ソファに座らせてやっと一息つく。

「で？　なんで葵と別れなあかんねん。なんで初音がそこに出てくるん。わけわからん」
「だって、初音をいじめるのよ」
「葵が？」
そらあり得んと思った光にまたも予想外の返事。

「葵さんの弟！　鉄くんの兄さんの銀ってひとよ！　ついさっきひどいこと言われて泣いちゃったんだから！」
「おまえが？」
「初音が！」

光の脳内は疑問符で満員・あっぷあっぷだ。まだ深くは知らない銀だが、女を苛める性格には思えないし、何か言われたくらいで初音が泣くなんてさらに思えない。第一。

「さっきてなんや。葵の弟らと？　おまえと初音が？　なんで一緒におるん」
機関銃のようにわめいていた乙女が口をつぐんだ。きまずげな顔。

「銀くんと初音はこないだうちで出くわしとったけど」
「うち？」
「店で。派手に口げんかしとった」
「うそ」
「ほんま。初音のほうがよっぽど攻撃的に見えたであんときは」
驚いた顔の乙女に追求は続く。

「おまえと鉄くんもこないだ大揉めしとったのに。また逢うたんか？」
「……連絡もらったの」
「へえ」
「それで、その」
「その？」
「今日で３度目」

今夜は乙女に驚かされてばかりだ。鉄と乙女？　あり得ないと思っていた組み合わせに光は心底驚いていた。
「……まさか、銀くんと初音も？」
ぎょっとした顔で乙女が首を振る。

「ほななんで」
「あたしが、鉄くんを初音の店に連れてったの。甘いもの好きだって言うから。そしたら銀って人とも鉢合わせして」
「なんやそれ」
「最初、初音がふたりにすごい怒ってたんだけど、銀って人きついんだもん。あんな風に泣いた初音、見たことなかった」

何を言われたと光は問わなかった。乙女の話を聞く限り言い方はともかく、間違ったことを言われたわけではあるまい。なにしろ葵の弟たちだ。それにしても。泣く？　初音が？

「初音を泣かすなんてひどいでしょ。だから」
「乙女も鉄くんと会うん、やめるんか」
怯んだのは一瞬で、うなずく乙女を光は揺すぶりたくなった。

「アホ。そないなことして何になる」
「どうしてよ。泣かされたのは初音よ？　もう逢わせたくないもの。そのためには」
「大事やからいうて、守って遠ざけるんがええとは限らん」
ひゅっと乙女が息をのんだ。信じられないとでも言いたげな眼。

「……光ったら。銀ってひとと同じこと言ってる」
「なんやて」
「守っちゃいけないの？　大事な人が泣いても何も出来ない無力な自分がどれだけ辛いか光にわかる？　あたしにそれを教えたのは光じゃないの！」

記憶がフラッシュバックした。この家、このリビングで、泣きわめいた自分。茫然としていた乙女。唇をかみしめていた初音。

「なのになんでそんなこと言うの！　どうしてよ！」

泣き出さんばかりの乙女の声に耐えきれず、光は乙女を抱きしめた。抵抗はすぐ止む。しゃくりあげながらしがみついてくる妹。

「…っれでひかっり、出てっ…ちゃったのに」
「乙女、かんにん」
「どうしてっ、…ぉ」
「堪忍やて」

「乙女？」

静かな声がした。振り向くとパジャマ代わりのＴシャツとスエットに着替えた初音。取り乱した様子は少しもない。顔が少し青いだろうか。

「初ねえ！」
駆け寄った乙女を抱きしめる。乙女の方が頭一つ背が高いのに、姉は姉だ。
「光？」
申し訳なさそうな初音の顔がまた昔を呼び覚ます。

「大丈夫か」
「平気。心配しないで」
「そうか」
「ほら、乙女も。大げさなんだから」
「だって」

妹の背中をぽんぽんと叩いて宥める姉。ふたりを見守りながら乙女の話を思い返して、ふと光は聞いた。

「なあ。弟ふたりに逢うとったんやろ」
「ええ」
「まっすぐ帰ったんか？　いつ頃？」
ようやく顔をあげた乙女が訝しそうに答える。
「光が戻るちょっと前」

おかしいと思った。大差ない時間に帰り着いたということは、葵の携帯が鳴った時、ふたりはまだ外に居たんじゃないだろうか。なら、葵が銀からと言ったメールは？ どうして嘘を言ったのだろう。

あれは、誰から？


光の胸に漠然とした不安が広がっていった。