乙女が五人兄妹の末っ子だと話すとたいていの人は驚く。核家族少子化の世の中では確かに珍しいかもしれない。『一人っ子に憧れなかった？』とも聞かれたが必ず首を振った。考えたこともない。

父の死。
母の狂乱。

舞台のごとく暗転した日々に一人だったら耐えられなかったろう。父の代わりに一家を支えてくれた桐子。不在がちの長女の代わりを努めた藤尾。初音と母の面倒を引き受けた光。誰が欠けても乗り越えられなかったと思う。

なかでもすぐ上の姉である初音は乙女にとって光と同じくらい、光が家を出てからは一番頼りにした存在だった。些細な口げんかや仲違いはあったけれど短気な乙女の癇癪にも動じず怒らず、クッションのごとく受け止め最後は抱きしめて笑ってくれた初音。


「葵さんの弟さんよね、どっちも」

隣に座るなり発された声音は不穏な響きだった。おっとり寛容な姉の、時折繰り出すナイフよりも鋭い舌鋒を思い出したものの、乙女には何が何やら理由がわからなかった。





兄と弟は似ていた。どこがどうと説明するのは難しい。けれど似ている。まなじり、真正面からぶつけられる眼、頭の反らし方。確かに同じ遺伝子を共有して見えるふたりを前にして、自分たちはどうなんだろうと初音は考えた。乙女とは性格も見た目もまるで違うと思っているけれど、人から見たらやっぱり共通点がたくさんあるんだろうか。

余分な考えを振り払おうとして眼を落とす。テーブルには飲みかけのビールと枝豆。チーズとトマトを注文したのは乙女に違いない。自分が加わる前の打ち解けた三人の雰囲気が見えるようで癇に障った。とげとげしい気分で鉄を見る。

「うちの兄とお姉さんのこと、あなたも知ってるのよね」
動じない顔で鉄がうなずく。度胸はありそうだ。
「それでどうしてこうなってるわけ？」
「こうって」
「お姉さんがつきあってる男の妹なんて、お手軽すぎない？」

キツイ言い方は百も承知だ。眼を剥いたのは鉄だけではない、隣で乙女も叫ぶ。

「初ねえ！　そんな言い方」
「……どこが綿菓子なんだか……」
小さく毒づいた鉄がおもむろに顔を上げた。

「きっかけは何でもありだろ。その先を選ぶのは俺たち自身だ」
「家族は無関係とでも？」
「関係ないわ」

癇癪を起こした乙女の怒鳴り声は小さい頃から聞き慣れている。ゆるゆると宥め受け止めるのが初音のいつもの役目だが今日は違う。滅多に出さない低い声が出る。
「本気で言ってるの」
怯んだように乙女が黙った。前のふたりも同様だ。

「そんなわけないじゃない。関係ないわけないわよ。少なくともうちに限っては」
良いことだとは言わない。もう少し距離が有る方が健全だろう。だからってどうにもならない。家族はそれぞれ違う。うちはそういう家族だ、まだ。

「光と葵さんのこと、うまくいけばいいとあたしは思ってる。でもわからないでしょ。駄目になったとして。それでも知らん顔でつきあえるわけ？　そう光に言えるわけ？」
乙女の顔がみるみる曇った。ああ嫌。嫌な役目だ。それでも。

「気持ちがはっきりしてるんならともかく、あやふやな興味だけなら別の人でもいいじゃないの」
「だって」
「どうせ何か聞き出すつもりだったんでしょ、彼から」
図星らしくまた黙り込む乙女。初音は不機嫌な顔の鉄も見すえる。

「あなたはどうなの？　光とお姉さんが駄目になっても乙女とつきあえる？　お姉さんに気兼ねしない？」
頬を凹ませた鉄の代わりに黙って聞いていた銀が初めて口を挟んだ。

「すっげえネガティブな女だな。あんた何様？」
斜め前から投げられた視線の冷たさに息をのんだ。

「何様って」
「ブラコンにシスコンはともかく、そんな悲観的でよく生きてこれたよな」
「どういう意味」
「大事な家族でも守るべき一線はあるだろ。あんたの人生があんたのものであるように、妹の人生は妹の、兄貴の人生は兄貴のものだ」

「そんなことわかってるわ」
「全知全能の神様じゃねえんだから、起きること全てから守るなんてできやしねえんだよ」
「だから」

「あんたが怒ってんのは結局、家族が傷つくと自分も傷つくからだろう。そんなのただの臆病者じゃねえか」

棒で殴られたみたいに初音の脳裏が真っ白になった。臆病者。前にもそう言われたことがある。ぐわんぐわんと頭蓋骨に鐘が鳴り響くようだ。床が揺れる気がする


「ちょ、銀、落ち着けよ」
「なんてこというのよっ、ひどい！　初ねえはそんな……っ？」
周りの声が途切れて聞こえる。肩をつかむのは乙女の手。
「初ねえ？　うそ、泣いてるの？」

泣く？

ぎぎぎと音がしそうなぎこちなさで隣を向いた。妹の顔は狼狽と畏れと、驚きでいっぱいだ。頬が冷たい。指先が濡れる。泣いているのは自分だとようやく気づいた。父が死んで以来一度だって泣いたことはないのに。

銀の仰天した顔が見えて、それが限界だった。

「初ねえっ」

膝の上のバッグをつかんで闇雲に外へ駆けだした。一階でよかった。二階席だったら転げ落ちたかも知れない。頭を掠めたのはそんなことぐらいで、あとはただ遠くへとしか考えなかった。





「乙女っ」
「離してよ！　あなたのお兄さんって最っ低っ！」
「待てって……あーあ、行っちまった」

つかんだ腕は思い切りふりはらわれてしまった。どっちにしろ初音を放っておく訳にもいくまい。乙女を見送った鉄はあきらめてテーブルにもどった。兄のはすむかいに腰を下ろし、非難をこめて睨む。

「いくらなんでも言い過ぎだろあれは」
「別に。間違ったことは言ってない」
強気な言葉のあとで、決まり悪そうなに銀がため息をつく。

「まさか泣くとは思わなかった。あの気の強い娘が」
「よく言うよ。あれじゃどんだけ気が強くても泣くって。容赦なかったじゃんか」
「腹がたたなかったのかよあんなこと言われて」
「腹は立ったけどさ……あそこんちは親父さんが早くに死んでるんだってよ。聞いてるか？」
突然言われて銀が眼を瞬く。

「いや、初めて聞いた」
「いろいろ大変だったって。きっとうちみたいに兄妹で頑張ってきたんだろ。だからどうしたってお互いのことが気になるわけだ、いつになっても」
「それにしたって」
「気にもしない家族よりずっといいって」

弟に諭されるのがむかつくのか、銀の機嫌が直らない。
「程度問題だ」
「絡むなあ。たかがビールで酔っぱらってんのかよ」
「おまえがものわかりよすぎんだよ。だいたいいつの間に妹とそうなってんだ」
「そりゃこっちの台詞だっての。いつのまに知り合ってんだよ」

「知り合いはしたが俺は彼女とつきあってねえぞ」
「その割には角突き合わせてるよな。火花散らせすぎ」
「うるせえ」
「あーもう。すいません、生追加ーっ」

それなりにイケメンのよく似たふたりが仏頂面でがんがんビールを飲む様を、周囲はさわらぬ神と遠巻きにする。広くもないテーブルに空になったジョッキがものすごいスピードで増殖していった。





「初、ねえっ」
必死で追いかける乙女を振り返りもせずに初音は歩き続ける。
「待ってよ、初ねえってば」
乙女が追いつくとようやく初音の足が止まった。広い歩道の隅、通りに面した店の明かりに照らされて頬に涙の跡が光る。

「ごめん」
「え」
「嫌なこと言って」
身を屈めてやっと聞き取れるくらいのつぶやきだ。

「見たくなかったの。光の絶望も乙女の失恋も」
「初ねえ」
「あたしが一番臆病なのね。あのひとが言ったとおり」
「そんなことない」
銀の言いぐさは頭に来ていたので、乙女は力一杯否定した。

「初ねえは臆病者なんかじゃない。自分の力で進路だって就職だってちゃんと決めて、立派にやってる。臆病者にそんなことできないよ」
「仕事はね」
ぽつんと初音が返す。涙の残る顔が乙女の知らない、子どものような頼りなさでとまどう。

「怖いのよ」
「何が？」
「人を。好きになるのが」
まさか姉にそんなことを言われるなんて。衝撃だった。

「でも、だって初ねえ、つきあった人いたよね」
「その人にも言われたわ、臆病者って」
放心した顔が浮かべた笑みは壊れた人形みたいに儚い。

「さっきわかった。ほんとにそう。光のことも乙女のこともとやかく言えやしない。藤ねえだってとっくに乗り越えたのに、あたしだけ同じ場所にいる。でも」
うなだれた初音の声は消え入りそうに細い。
「どうしたら動き出せるのかわからない」


しゃがみ込んで膝を抱き力尽きたような姉の姿。うろたえ困り果てる一方で姉に対して初めて守るという感情を乙女は覚える。初音をあの、口の悪い男から守らなきゃ。鉄にだって今はむかつく。ついでに葵もまとめてしまえ、ってのは乱暴過ぎるかもしれないけど。


姉の隣にひざまづき肩を抱きながら、ふつふつと胸に湧く日高姉弟への闘志に乙女は拳を握りしめていた。