タイムマシンにでも乗ってきたような心地だ。

光は葵の小さな顔を見下ろした。白い頬を浮かび上がらせるのは弱々しい月の光ではなく斜め上の街灯だ。透明な肌につややかな口紅。決して心穏やかな夜ではなかったろうに、しんとこちらを見る葵は、静かな水面を思わせる。

「……馬場さんと何話してたの」
水面にぽつりと波紋が落ちる。

「あいつが俺に話すいうたら葵のことしかないやろ」
「だから何を？」
「葵はええ女やてほめまくっとった」
「嘘ばっかり」
即座に否定するのでちょっと馬場が気の毒になった。じわりと葵のまなざしが険しくなる。

「聞いたんでしょ、昔の私」
「ああ」
「そう」
うつむいて葵が視線を流した。沈黙が満ちてうねる。広がった波紋が消えるほどの時間をおいて、意を決したように葵が顔をあげた。

「あなたは？」
「なんや」
「あなたが私に近づいたのは、違うわよね？」

一瞬、何を聞かれたのかわからなかった。ぽかんと葵をみつめ、意味を悟る。かっと沸き返った怒りに全身が燃えた。ずいと踏み出すと葵が一歩後じさる。たぶんすごい形相なのだろう、みるみる青ざめる顔。

「俺も、企んどるいうんか」
「……あ」
「俺もあいつらと、馬場や四つ木とおんなじや言うんか」

「ひ、かり」
「確かめんとわからんのか、どアホ！」
「わかんないから聞いてるんでしょ、馬鹿！」

怒鳴り返されるとは思ってなかった。眼を剥いた光に葵はさらに食ってかかる。追い詰められたネズミよりも遙かに強そうだ。

「わかるわけないじゃない！　二度も間違ったのよ？　見る目なんてありゃしないわよ。まさかあなたの元カノが若菜さんだなんて。もしかしたらって思うでしょ？　違う？」
「それいうたら俺かてびっくり仰天しとるんや」

「なんで若菜さんなの？　なんであの人なのよ」
「若菜の相手が葵の元カレやなんて、俺にわかるわけないやろ」
「なら私だってわかるわけないでしょ、あなたの心の中まで！」

居酒屋の戸を開けて出てきた客が、面食らった顔をしてそそくさと逃げていく。夜中に舌鋒鋭く口論する男女に口を挟むようなまぬけはいまい。触らぬ神に祟りなしだ。

周囲にお構いなしでふたりはにらみあっていたが、結んだ視線をふっと光が切った。

「そやな、相手の心はわからん」
転じて見上げる空にはぼんやりとした月。視界の隅で葵が怯む。

「言うたら月みたいなもんや。あるて知っとるし誰もに見えるけど、触ったり確かめたりできるわけやない。ほんまはウサギがおるかもしれんしでこぼこやのうてツルツルかもしれん。信じとるもんとは全く違うとるかもしれん」
すっと眼をおろすと強ばった顔。

「俺も、葵も、それであない苦しい思いしたんや」
少しだけ葵の眼が大きくなる。
「言うたやろ。若菜にふられて自棄になってぼろぼろやった。わかっとるつもりでわかっとらんかったから」
返事は、ない。

「馬場っちゅう男の話聞くんも、しんどうてたまらんかった。どんだけあがいても昔のことや。俺にはその頃の葵を助けてやれん」
ぐっと握った右のこぶしを左手で包む。
「おまけに。俺が今、葵とこうしておるんは昔があったからや。そない思うたら余計にしんどい」
「……ひか、り」

「四つ木て奴と幸せになっとったら、馬場の奴と幸せになっとったら、葵はここにおらん。葵に会うたんが嬉しい。そう思うたらなんや申し訳のうなる」
「それは光だって」
「俺は葵に苦しかったり辛かったりしんどかったりして欲しゅうはない。そやけど四つ木とか馬場とかやのうて。俺と、ここにおって欲しいんや」
光は困ったように首を傾げた。

「そう思うんは狡いやろか」
かぶりを振った葵の口元が歪んだ。唇を噛む。

「俺が惹かれたんは今の葵や。全部越えてここにおる今の葵や。若菜は関係ない」
自分はどんな顔をしているやら。

「俺の中に今ある月は葵や。葵なんや。信じれるか？」

互いにしばらく無言だった。葵の眼にゆっくりと盛り上がった滴が、堰を切ったようにぽろぽろと転がり落ちる。それが何を意味するのか光にはわからない。
「葵？」

子どもがいやいやをするようにまたかぶりをふる葵。堪えきれずに光が抱き寄せると逆らわず、でも涙は流れ続けた。雨のように。

「な、にが。わだかま、ってるのかしら」
「葵」
「信じ、たいの。ううんわか、ってるのよ。あなたは直、ちゃんとも馬場、さんとも違う。わか、ってるのにど、うして不安なのか、しら」
「葵」
光の肩、背広に額を押しつけ、ネクタイごとワイシャツをぎゅっと掴んで葵は嗚咽をこらえようとする。涙が、胸を濡らす。

「俺かて不安や。こないだものすご幸せやて思たのに。なんでやろ」
光は抱え込んだ腕の中で彼女をゆらした。

「そんでも離す気ぃはないで。逃げたらあかん」
「わか、ってるから。疑ってるんじゃないの。逃げたりし、ない。でも……時間をく、れる？」

心の整理がつかないのだろう。光と同じ、葵もまた過去から現在への道を否応なくたどったに違いない。
「時間なら一杯ある。心配せんでええ。逃がさへんし」
「……ひ、かり」

囁くような声が光と名前を綴る。それだけで今はいいと思った。心は見えない、わからないものだけれど。


こうして月を抱いているのだから。
空にあるのではない、自分だけの月を。





同じ頃。
馬場も電車の窓から空を見上げていた。

要らぬお節介をしたなと思う。満足と不満足の間を気持ちは行ったり来たりしている。満足は彼女のために、不満足は自分のために。光に最後につけたした忠告は自分の後悔だ。

葵がいなくなってから何度思っただろう。引かなければよかった。罵られても突き放されても押して押して押しまくればよかったと。たとえそうしたところで、葵が受け入れてくれたかどうかは怪しいが。

負い目がありすぎた。出逢いから全てが若菜のお膳立てとばれてしまえば砂上の楼閣。積み重ねた全てが崩れてもしょうがなかった。もっと早くに全てを打ち明けて許しを請えば。馬鹿だったと思う。


葵が会社を辞めると聞いて、ようやく馬場は自分を取り戻した。未練もプライドも捨てて退社し、葵がそうしたように一から会社を興した。無論自分のためだったが、わずかな期待が潜んでいたのを今夜改めて自覚した。

もう一度葵に会いたかった。
会えればもしかしたら、と。


今カレだという男を引っ張り出したのは、チャンスを探ろうというスケベ心があったからだが、彼と話すうちにそれも消えてしまった。ストレートな光の表情に、また策を弄するようでばからしくなったのだ。

いい加減、俺も大人にならないとなぁ。

年齢だけはとっくに大人と呼ばれる年だというのに、昔の恋ばかり追いかけているのはみっともない。相手にはその気がないからよけいに。

ぼんやりと見える夜空。葵はあの月みたいだった。きれいで儚くてつかめない。だから忘れられなかった。それも今夜限りにしよう。


車内アナウンスが乗り継ぎ駅を告げる。ほどほどに混んだ人波が降車のためにおずおずと形を変えていく。倣おうとしてもう一度窓を振り返った馬場は、月に向かって微笑んだ。


もっと、くっきり輝け。
誰もがふり仰ぐほど美しく。


しゅーっとドアが開いた。
人の群れに紛れた馬場はもう、空を見上げなかった。