同じ日の終業後、直哉はさらに馬場をつかまえた。昇進以来会うことも少なかったかつての同僚はどこかやつれた表情だったが、それを思いやる気などさらさらなかった。強い調子で問う。

「馬場。葵に何をした。だいたいどうして君が」

馬場の顔が苦痛に耐えるかのように歪んだ。詰め寄った直哉が驚く。彼のそんな顔を見たことがなかった。返してくる口調はしかし強気だ。
「葵ちゃんが誰とつき合おうとおまえに関係ないだろう？　自分の都合で捨てたくせに」

自分と葵のことも全て知っている、そう示唆した彼の答えと『葵ちゃん』という呼び方に苛立った。すると馬場の方が驚いた顔になる。

「捨てたってのに未練があるのか」
「未練じゃない」
「ならどうして今さら俺に文句が言える？　俺よりおまえの方がよっぽどひどく彼女を傷つけてるぞ」
「僕が傷つけたから君も傷つけていいっていうのか？　どういう理屈だ」

さっと変わった馬場の顔色を見て、直哉は思い当たった。
「君はまさか、僕とのことを知った上で葵に近づいたのか？」
否定して欲しいと思うときに限って相手は黙る。

「僕への意趣返しとか言うんじゃあるまいな」
「違う」
「じゃあ何故」
「確かに葵ちゃんにはすまないことをした。申し訳ないと思ってるし彼女には責められてもしょうがない。だがおまえに言われる筋合いはない。おまえがちゃんと葵ちゃんを守ってれば、こんなことにはなってなかったんだ」
「僕と別れたからって葵は会社を辞めなかったぞ！」

つい声を張り上げた。細くなった馬場の眼がかっと大きく見開く。信じられないという顔。
「辞める？」
「……知らなかったのか」
「葵ちゃんが？　会社を？」
「そうだ。総務部長から聞いた。就職を世話したのは僕だったから」

直哉の説明など耳に入らぬように馬場は手近の椅子に座り込んで肩を落とした。パイプ椅子がギシッと鳴る。ブラインドの向こうでは日がとっぷりと暮れた気配。うなだれていた馬場がくっと喉を鳴らした。くっくっと笑い出す。

「そうか。辞めるのか」
「馬場」
「参った。女は強いな。ほんとに強い」
馬場が煙草を取り出す。こいつはヘビースモーカーだった。
「社内は禁煙だ」
「固いこと言うな。一本だけだ」
携帯灰皿まで並べて見せてさっさと火を点ける。

「四つ木。俺はおまえを羨んでたよずっと。でもやめた。やめだ。葵ちゃんに負けてられない。男としてじゃなく、人として恥ずかしくなった」
「馬場？」
「葵ちゃんはいい娘だ。ちょっと臆病だが頭がよくて思いやりがあって優しい。たぶんこれからもっといい女になる。そうなった彼女を俺でもなくておまえでもない、もっとずっといい男がさらっていくだろうよ」

もっと。ずっといい男が。
馬場の台詞がひどく不愉快に響く。

「俺はおまえが嫌いだが、彼女を許嫁に選んだのは眼が高かったと認める。だからこそ彼女を捨てたおまえは馬鹿だと思う。もっとも今じゃ俺も同レベルだがな」
ほんとに不愉快な台詞を馬場は淡々と吐き続ける。

「なあ、ひとつ聞きたい。美人で可愛い専務の娘と結婚して、昇進して、前途洋々だと誰もにいわれているだろうが。葵ちゃんと別れたこと、ほんとに後悔してないか」

ないというつもりだった。でなきゃ葵にも失礼だ。なのに喉の奥でわだかまって出てこなかった言葉。にらみあったあの、一刻。



家路を急ぐタクシーの中、直哉は隣に座る若菜に眼を戻した。彼女の視線が自分からそれることはない。思われているのを疑ったことはないし仕事にも地位にも満足している。でも。

後悔してないか？

答えはやっぱり喉の奥でわだかまり続けている。





あの日。
直哉とふたりだけで会ったのはもちろん、その胸に引き寄せられるのも葵には五年ぶりだった。ありとあらゆる感情がどっと心を去来する。そう五年だ。恋しくて寂しくてむなしくて投げやりになって。心も身体ももてあまし、別の人にすがってまた躓つまづ　いて。

直哉と別れてからの葵はいわば、がらんどうだった。「がらんどう」は「伽藍堂」と書く。本来は立派な寺院の建物を指す言葉らしい。まさしくそんなふうに、外はがちがちに固めいかにもしっかりした風を装っていたけれど、中はからっぽで。

そこを満たせるのは直哉だけだと、言葉にせずとも思っていた。信じてきた。なのに五年ぶりの彼の胸で安らげない自分に気づいた。同じところを堂々巡りしていたつもりがそうではなかったらしい。悲しみながらあがきながらも薄紙を剥がすように気持ちは変わっていたのか。

五年前の自分はもういなかった。心は相変わらずがらんどう、からっぽでも、求めているのは彼ではない、新しい何かだ。

腕をふりほどいて離れた葵を、直哉は唖然と見ていた。対峙する距離は心の距離だ。ずっと彼に頼り彼に手を引かれていたかったけれど、時は戻らないとようやく悟る。遅すぎるけれど気づかぬよりはいい。

若菜のことも彼女が葵に意図したことも告げようとは思わなかった。馬場との別れを決めた時、会社も辞めると決めたのは正しかった。別の仕事をしながら秘書の勉強を続けよう。もういちど秘書の職に就けるかどうか、先のことはわからない。でも。

古い殻を脱ぎ捨てる時だ。
逃げないで前に進もう。

「いろいろありがとうございました。樫野さん、お元気で」



そう言って頭を下げたかつての自分を思い返しながら、葵は青になった横断歩道を渡った。あれから思いがけず陸見と再会し、幸運にも秘書として新たに働く場を与えてもらって。

無我夢中で頑張ってきた二年。やっと周りが見えてきたところだ。直哉のことはもう過去なのに、どうしてこうも引きずるのだろう。駅の高架がすぐそこに見えていた。





「おっさん、アホ言わんとき！」
バンとテーブルを叩いて立ち上がった光に、居酒屋中の視線が集中した。激高している光はそれどころではない。

「なんやそれ。あんたと若菜のせいで葵だけ会社をやめたっちゅうんか？　貧乏くじひいたんは葵だけて、そないな話あるかいな」
「……すまん」
「すまんですむか、ぼけえ！」

「お、お客さん。外でやってくださいよ」
「じゃかぁしい！」
「落ち着け。悪いなおばちゃん、お勘定頼む」
「ごまかすんか」
「いいから出ろって」

光は馬場にいなされ店の外へ押し出されてしまった。あの冷静さは年の功か、面の皮が厚いのかどっちだ。奢おご　られるのもまっぴらだと財布を取り出しながら、光は自分の内心をのぞきこんだ。

本当に怒っているのか？　誰に。
馬場に？　若菜に？　それとも自分に？


馬場の話を聞けば聞くほど、若菜と自分の別れは必然だったと思い知らされた。一度の食事とメールだけで馬場を動かすあたり、深慮遠謀というには余りにも若菜の狡知こうちが際だって思える。

それでも彼女の行動にはひとつの意志が貫かれていた。いつだったかは知らないが、四つ木直哉を求めた時から彼女にとって他の人間など眼中になくなったのだろう。光や馬場に対しても罪悪感など一切あるまい。若菜に文句が言えるとしたらそれは、葵ひとりだけか。


怒りがすうっと勢いを無くして足元に落ちたところで、店から出てきた馬場と眼があった。妙な縁だと思う。同じ女に振り回され捨てられて、その後また同じ女に惚れて。

そう、馬場は葵に惚れていただろうし今も惚れていると光は思っている。似たもの同士の勘だ。聞こえたみたいに馬場が、にっと笑った。

「ほんとイケメンだな。嫌になる」
「男にほめられてもつまらんわ。いくらやった」
「奢おご　るぞ」
「あんたにだけは奢られとうない」
「そりゃそうか。一万円」
手のひらを突き出してくる。したたか者めとにらむ。

「あほか。奢られるんはもちろん、奢る気ぃもないで」
「じゃ七千円」
「ぼるな！　せいぜい三千円やろ」
「おいおい、五千円」
「やっぱりぼっとるやないか」
こんなところで掛け合い漫才か。ぶつぶつ言いながら五千円札を差し出すと、つかんだ馬場が光をじっと見る。

「なんや？　釣りは負けたるで」
「葵ちゃんは辞めて正解だ」
「はあ？」
「若菜からも四つ木からも、離れる必要があったのさ」
ひらりと取った五千円札を四つにたたんで胸ポケットに押し込みながら馬場が続ける。

「辞めたからこそ今、秘書として颯爽としてるじゃないか。前より何倍何十倍もいい女だ」
「俺のやで」
また笑われる。

「いい女をさらったな。思った通りだ」
「何が」
「こっちのことさ」
「なあ。結局俺に何言いたかったんや」
真顔になって光は聞いた。

「忠告をな」
「忠告？」
煙草を探して内ポケットを探ったものの、とっくに吸ってしまったのを思い出して肩をすくめた馬場は、急に真面目な顔になった。

「あんた。彼氏なら引くなよ」
突然言われても何のことやら、光は眼を瞬かせるが、馬場は繰り返す。

「いいか絶対引くな。押して押して押しまくれ」
「なんやそれ」
「俺はさ、今夜久しぶりに葵ちゃんを見てすごく驚いたんだ。ぴっかぴかで自信に溢れていい女になった彼女にさ。ふるいつきたいくらいだった」
「あほやろおっさん」

「だがな、人の本質はそうそう変わるもんじゃない。俺の知ってる葵ちゃんは考えすぎるし我を通すのが苦手だった。言い代えると傷つくことにも傷つけられることにも臆病だった。だから四つ木とのこともあっさり身をひいて自分だけ痛い目を見たんだ」
「あんたが言うか」
「俺のはおまけみたいなものさ」
そうかもしれないと思うところはあるから光も黙る。

「いいか。彼女が平気なふりして距離を置こうとしても置かせるんじゃない。しつこくていい。嫌がっても押して押してくっついてろ。あの娘にはそれで丁度いいんだ。気を抜くと自分を押し殺して逃げちまうからな」

おいおいと眼を白黒させながら聞く。まさかこの、自ら葵のセフレだったと言った男から心配されようとは。予想外だが不思議と嫌な感じはしなかった。

言うだけ言ってから光の顔つきに気づいて、馬場の方が決まり悪げになった。首の後ろをごりごりとかく。
「罪滅ぼしとは言わないが、できればもう泣くとこは見たくない。笑ってると思いたいのさ。勝手だがな」

「ほんまに勝手やな。お節介もええとこや」
「あんたがいるんだ。俺は頼むしかできんだろう。もしかしたらと思ってたんだが……っと」
「いらんこと考えんとき」
「じゃなくて、びっくりだ」
「は？」

自分を通り越している視線を追いかけて振り向く。確かにびっくりだ。カツカツとヒールを鳴らしながらやってくるのは葵だ。彼女も驚いている。
「どうしてふたりでこんなところにいるの」

説明のしようがない。向き直ると遠ざかっていく馬場の背中。
「ちょ、おっさん、逃げるんか」
「逃げるさ。話はすんだしな。あとは頼んだ」
「うそやろ」

「馬場さん？」
葵の呼びかけにこっちを向いた馬場が、ふっと笑った。光に向けたのとはまるで違う、優しい笑み。

「いい女になったな。仕事がんばれよ」
「馬場さん」
後ろ手を高くふった馬場に、格好つけやがってと光は腐る。



気づいたら光と葵だけ、高架そばの路上に立っていた。

月の下。
朧ろな春の闇に包まれながら。